散歩主義

2004年03月25日(木) 「落下する夕方」を読んで

  

 1996年、江國香織作品です。
 多分どの本でも読み終えたあとには、独特の沈黙があって、読者は物語の余韻を味
わうことと思いますが、この本の読後の「静けさ」はぼくにとって忘れられないもの
の一つとなりました。
 読後すぐにスピリチュアルな声が無性に聴きたくなって、幾人かの女性歌手の歌を
(例えばニーナ・シモンのような)をかけたのも、それはそう、この魂は即刻、癒や
され「なければならない」という切羽詰った気持ちがあったからだと思います。
 「この魂」とは自殺した華子という登場人物の魂と、そして彼女にかかわったすべ
ての魂たちのことです。
 あとがきに作者自身が書いています。
「冷静で、明晰で、しずかで、あかるくて、絶望している」
 まさにその感情を撫ぜるようにして聴きました。

 「引っ越そうと思う」という言葉で始まり、「引っ越そうと思うの」という言葉で
終わる小説です。
 人生を時間のスパンで見るならばほとんど瞬間に近い出会いと別れの話でしょう。
しかしその比重はブラックホールのようでもあり、けっしてふさがることの無い傷と
もいえる出来事の物語。
 華子という女性にかかわった人間たちの、魅了され、振り回され、怒り、呆れ、憎
み、愛した物語。

 その心の動きが克明に、丁寧に、具体的な肉体の所作や振舞い、たとえばしぐさや
眼の位置、飲み物や食べ物、音楽から寝相まで、くっきりと記述されます。物語の終
盤近く、彼女の死によって物語が巨視的になりはじめると、その効果なのか、ああ
「魂」というのはこういうものなのだなと感じることができました。

 あらゆる言葉、感情、肉体、思考そしてそれぞれに貼りついた風景と時間。その一
瞬一瞬にも見え、なおかつ不可分であるそれらの総体もまたそうだ、と。だから見な
がらにして、見渡すことは不可能であり、ただ感じるものであるということを。

 そして、その魂が「逃げる」という選択をしたときの、自由と悲惨。しなやかさと
エゴ。それはイノセントであることの暴力と美しさでもあり、そして嫉妬と憧れを引
きずっていきます。それは風景を巻きこんで沈んでいく落日に似て、総体としてのみ
感じることのできる「さみしさ」と「解放」のないまぜになった人生の完結でもあり
ました。

 途中から「あ、この人は死ぬな」と感じました。そう思ってしまう自分をさみしい
と思いつつ、華子の死を受け入れることに難渋する主人公に感情移入していきました。
 魅力溢れる華子。翻弄される男と女たち。そういうかれら全員の心を感じとるよう
にしながら。

 主人公(梨香)は華子の死のディテールを徹底的に思い描き、そして彼女の魂の葬
送を彼女なりにやり遂げ、「漠然としたさみしさと寒々しい自由」を自分に受け入れ
ます。主人公は現実のこちら側にいよう、と決めたのでした。
 
            「それでもたぶん、生きている人のほうが強いですよ」
            半分は嘘だった。

 それはまさに 「しずかで、明晰で、絶望している」地点からの一歩として決めた
のでしょう。

 死と生は平等である。そんな読後感を抱きました。どちらかがどちらかを責めるこ
とはできない、と。ただ、ぼくもまた現実の生死を少なからず見つめてきて、「現実
のこちら側」を選び続けている人間です。二項対立ではない視点にたたなければ手に
入れられない「明晰さと冷静さ」。だからこそ導かれる温かい視点。それによって 
死を、生をそして他者を思えれば。そんな気持ちでいます。

  ディテールの楽しみもまた格別のものがあります。特に歌に関してはものすごく
楽しい小説です。そのぶん哀しみも「いただかねばならない」塩梅になりましたが。
そのさわやかで抜群の文章力とそつのない構成に感嘆しつつ、実に重いテーマにしば
し考えをめぐらすことができました。
 まるで落下する夕方をみつめているように。

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読み始めはハービーハンコックを聴いていましたが、途中からニーナ・シモンを聴かずにはいられなくなりました。

How long must I wanderや Just like a woman。

それと爆音のようなロックもききたいですね。
本作にはチャー、ピンク・クラウドといった懐かしい音が登場しますが、ぼくはスピード・グルー&シンキという横浜のスーパートリオを思いました。ルイズルイス加部と陳信輝のベースとギター…。
遠い70年代ですが…。

さて、江國さんものも一段落かと。
このまま小川洋子さんへ進むか、それとも久しぶりに男の一人称を読むか。
たぶん、どちらも読むと思いますけれど。
江國さんだって「流しのしたの骨」をもう一度読もうかと思っています。


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