玄侑宗久さんの「禅的生活」を読み始めました。 ちくま新書です。新書だから安いです。 (ぼくの本も出きる限り安くしたいと思ってますよ。だから薄いです…)
これはおもしろいです。まだ読み始めて数ページだけど嵌りそうです。 モノの考え方、暮らし方なんですけれど、禅のめざす「自由」がいいですね。 「自由」といっても奥が深くて、いわゆる「放縦」とも違い、自由の阻害者としての「自分」からも自由になるというなかなかに面白いお話になりそうです。
もちろん「考え方」と「身の処し方」ですから、詩なり文章なりを書く上でのヒントも満載です。満載と思う人にとってのみ満載ですが。 というのも禅というのは、最終的な悟りにおいては言語を超えていくものですから。
詩、文章というのも方便となります。そういう突き放した見方。これがぼくにとっては大事な点。学びたい点です。何かに染まった心を信じないという考え方。 簡単に言えば、好き嫌いを超えるということです。 禅語でいう「可もなく不可もなく」です。 これは一般には「良くも悪くもない」と理解されている言葉ですが、出典の孔子も禅でも「あるものごとに価値判断をしない」という意味になります。 「自分は、為すべきことや為してはならないことや、これは良くてこれは駄目という判断しない」ということです。
混沌の中から禅はたちあがってくるのですね。 おお、という感じです。 今日のタイトル「一切唯心造」といのも 「所詮全ては心がつくりだしたものやんか」という禅語です。 玄侑さんも指摘してはりますが、かぎりなくフッサールに近い考え方です。
たぶんぼくに、世界の見方を変えたいと思うところがあるのでしょう。 それが動機で、そして作品を作りながらいか自分を変えて、そして人にどう寄与していことができるのか。 勉強は続くのです。
それにしてもオモシイぐらい心を馬鹿にしますよ。 ほんとに気持ちいいぐらい。
心こそ心迷わす心なれ 心に心 心許すな
つまりは、それほど心を大事にしているということとぼくはみました。
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