今日は禅宗の僧侶の方の新聞コラムに書かれていた素敵な仏話のお話です。
まず仏像の話から。 奈良・法隆寺の百済観音像や京都・広隆寺の弥勒菩薩像は口元に不思議な微笑を浮かべていますね。微笑みは仏様の慈悲を表すとされていますが、美術工芸の観点からはギリシャ彫刻に微笑の原点はあり、アルカイック・スマイルとよばれています。 ところが、後世の仏像からは微笑みが消えています。7〜8世紀ごろからなんですが、口元をぐっと結んでいます。威厳を感じさせるように変容していくんですね。 しかし、仏教はじつは微笑の宗教なのだ、と。しかもそれは禅宗の世界で復活したと筆者は主張されます。
天竜寺管長の平田精耕老大師は 「キリスト教は愛の宗教、イスラム教は怒りの宗教、そして禅は笑いの宗教」といわれたとか。禅が笑いから始まったといわれると、にわかには信じ難いのですが、次のようなお話が紹介されています。
ある日、釈尊が説法のとき、なにも言われずに花を1本さしだされました。 それを見て迦葉尊者というお弟子さんがただ一人、にっこりと微笑まれたのです。 それを見て釈尊は「わたしの教えは迦葉に伝わった」とおっしゃったそうです。
では彼は、何故笑ったのか、なにに笑ったのか、そして何故釈尊はそんなことを言ったのか。 なるほど、難解きわまりない禅問答の最初がこれだとしたら、たしかに禅は「笑いの宗教」ですね。
アリストテレスは「人間だけが笑う動物である」と言いました。 ぼくに言わせると人間と暮らしている動物たちも笑います。でも不思議ですね、笑いとはなんでしょう。
すくなくとも皮肉な笑いも含めて、人を活性化していることは間違いないですね。 「笑って忘れる」というのもあるし…。
ただ、ぼくはこの話を読んで、なんとなくほわん、とした暖かさ、温さを感じるんです。なんだかいいな、と。 理由なんていらないじゃん、みたいな。
実は、個人的に親しい僧のかたに「肩の力を抜きなさい」とアドバイスを受けました。自然のままでいいんだから、とおっしゃるんです。もし、「肩に力が入っている」のなら不安から来ているのだと自分では思います。 「あなたの職業はもう『詩人』でいいんですよ」といってくれた方なので、その「肩の力を抜く」という言葉を味わっているところです。 「自然に書けばいいんです」 その言葉の深さに励まされています。 書いている自分を信じる。それしかないんですけれど。 それも先ほどのお話のように「ほわん」と力の抜けた感覚でいきたいな、と感じたのでした。
今日はものすごく久しぶりに昔のUAのCDを引っ張り出して聴いてます。 今日は「バンブーナイト」でもあります。 ということで早めに仮眠を…。
ではでは。
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