| 2003年10月18日(土) |
カンバセイション・ピース 序 |
保坂和志さんに同名の小説があるけれど、その話ではない。だけどその本までいつか届こうと思って、ものすごく初歩的なところから話をはじめたくなった。 つまり、方法としての「カンバセイション・ピース」を自分なりに考えながら書いておこうと思ったんだ。
そもそも「カンバセイション・ピース」という言葉を知ったのは森瑶子さんの料理の本からだった。作家の書いた料理本。森さんはとにかく仕事も家事も完璧にこなそうとされた人である。亡くなった今となってはもう、その続きを望むべくもないけれど、その超多忙な生活で編み出された料理の数々は、とくに簡単スピードメニューとして重宝している。
その本、1994年第一刷発行の「森瑶子の料理手帖」はレシピを紹介しつつ、作家の本らしくエッセイが随所に引用されていて、楽しい読物になっていた。そのひとつに『カンバセイション・ピースとしての[私の器]』があった。それがこの言葉との最初の出会いである。 それは森さんが京都の骨董屋やタイで求めたガラス容器などの食器のことを書いたエッセイだった。つまり「カンバセイション・ピース」とは、
……器のひとつから会話が生まれる。そういう器や小物のことを英語では『カンバセイション・ピース』という。 何か見て、そのことについてなにかふと言ったり、質問したり、感想を言って見たくなる小物。 それは器でもいいし、玄関の小さな敷物でもいいし、飾り棚の上の人形の類でもよいのだ。そのことをきっかけに話題が弾み、会話が盛り上がるようなもの…… (森瑶子「森瑶子の料理手帖」・講談社/初出は「恋の放浪者」・角川文庫より)
となる。一人での発信、ということではない。例えば京都で見つけたいきさつを話しだすと、京都出身の人が現れたり、その箸おきがある店の話から京都の話になったり、あるいはこんな箸置きもあるぜよ、というふうに話からどんどん枝が伸びて、発展していくこと。そうさせるものが「カンバセイション・ピース」である。 これはテーブルを囲んでの話しだけれど、ネットでもがんばれば出来そうな話ではある。 まあ、がんばったらあかんのだけどね。すっと自然に話が転がりだして止まらない。そんな楽しさがいいんだと思う。 保坂和志さんの新著「カンバセイション・ピース」もその名がずばりとタイトルにあるように、基本の骨格はそうだ。だけど、保坂さんの「季節の記憶」だとか「プレーン・ソング」なんかも考えてみれば「カンバセイション・ピース」だ。読んだ人なら「うん、そうかも」と言ってくれる(かな?)と思うんだけど。
ぼくはこれをブログの walkxwalk でやろうと思った。今、「夕顔」「ジャズ」「猫」「ジミ・ヘンドリックス」などなどがでている。なんと今「児童虐待」から話を転がそうとしている。いっしょに転がす相手は自分のアタマの中の登場人物。結論は出ない。出るはずがない。もともとの骨格が「カンバセイション・ピース」なんだ。御喋りは延々と続く。どこまで続くか。それで Walk でもあるんだ。 その間に読んだ資料や本、聴いた音楽それがまた「カンバセイション・ピース」になる。
保坂和志さんの「言葉の外へ」という本にある、今後の文学の可能性としての 『薄い薄い事実をとにかく重ねつづけていくこと』 それが「カンバセイション・ピース」なのだと思う。で、そう思うと文章や詩もかける。つまらないことをあんまり考えなくなるんだ。今となっては大括りのテーマのすべてが嘘臭くしか見えないんだもの。
……高価である必要はなければ、こりにこったものである必要もない。工夫や発想に面白みがあれば、普段家庭で使っているようなものがカンバセイション・ピースになりうる…… 森さんはこんな風に書いてエッセイを終わっている。デザートのアイスクリームを味噌汁を入れるしかないような漆器に入れて出す外国の婦人がいて、それが目を見張るほど新鮮だった、と。
ぼくのカンバセイション・ピースの試みの第一歩はここからなのである。こういうやり方をネットや創作でやってみる。そういう試みとして。
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