英語で書くと字全体が別のものになって、「エモーショナル」という、日本に帰化したかのような言葉に親しみを覚えます。 カタカナの表記とアルファベットの表記とでは意味がだいぶ、ずれて使われているともおもいます。
そもそも「表現」を意味するのですが、より「表現意欲」の発露に力点を置いている場合、に使われているようです。 では「なによりも大事にするのとエモーショナルになるのか」というと、たいてい「テクニック」という言葉が返って来ると思います。
技巧よりも表現したいという衝動を、という意味合いで使われると、思わずうっとりしてしまいそうなんですが。
だけどそれだけではやはり駄目なんですね。衝動があっても表現として成立しないといけない。 だけど詩というのは、衝動の生々しさを言葉寸前で表現したり、逆に言葉によって言葉以前の感情の塊の側面を照らし出したりすることがあります。
たとえば「詩のボクシング」はそうです。ただ、多くの現代詩人が「紙の上の文字の貧困を忘れている」と指摘し、否定的ではありますが。
文字と声と紙と その際際で 詩人ひとりの指が生み出すものとして ぼくは時として 歌を 想起します。
エモーショナル…それは歌にこそふさわしい言葉だと。
詩も もちろんエモーショナルでありえるけれど ぼくは時として歌うように書くことがあって それはそれでまた 書くだけで 至福のときでもあるのです。
ただ声に出してしまうことで 得るものと 失うもののあること、それはあります。 「声」故に失われる言葉のこまかなニュアンスは必然だと思わねばならないでしょう。得られるものは生の感情の発露です。
ただし、凄い歌手というのは 言葉の細かなニュアンスの 凡人には想像もつかないような豊かさをみせてくれます。 そういう歌手こそ エモーショナルなのでしょうね。
ボビー・ウォマックを聴きながらそんなことを思っています。
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