散歩主義

2002年11月22日(金) 影絵

「非力に生きる」最終回。ちと難解です。論者は人類学の鈴木和孝氏。
「身体化された心の理論」がゆっくりと登場しつつあるという書き出しです。
鈴木氏はこれを「唯物論」になぞらえて「唯身論」と仮によんでいます。と、書くと養老孟司さんの「唯脳論」が浮かびますが、このことには触れないでおきましょう。
しかし「唯身論」と「唯脳論」はとても近しい関係あるとだけ、ぼくの感想としておきます。

難解というのはメルロ=ポンティが登場するからなのですが、彼の身体論と近年の認知科学の成果が統合して生まれた理論です。

どのような理論かというと『人間は客観的に真理を認識する、という自然科学の基本前提に異議を申したてる』というもの。
認識というのは身体構造や生理といった生物学的諸条件および社会や家族の中で育まれる文化によっても制約される、と。

つまり、真理の認識の仕方は文化や個人によって違うということ。
また、ヒトはたとえ目に見えないものでも、身体の経験として理解しようするということ。
例えば「時の流れ」を理解するのに川の中に入り水の流れの感知から理解に至る、やリ方とヒトがいるように。
そのような『隠喩』が非常に重要だと。

この理論が射程にいれて狙っているな、と感じたことがありました。
つまり、現在世界を覆っている理論は「利得−損失計算に従う行為者モデル」であると規定しているのです。それへのアンチを主張しているのであろう、と。

「利得−損失モデル」は経済学から行動生態学に至るまでありとあらゆる領域を支配していますね。ごくごく簡単に言えば「損得計算ですべて説明できる」というモデル。

おっと、ここでストップです。
続きはお茶の時間にでも。
ではでは。

はい。続きです。(あ、午前中のもなおしてあります。)
この理論の最も重要な前提は「人類は『群居性霊長類』として進化したのだから、共存の中での安寧にこそ動機づけられている」ということです。
狼でもライオンでもないわけですね。

さて、ここからが重要な比喩です。
生存競争の根底は強いものが弱いものを「どかす」という行動です。これは「影絵」を見ても説明できます。理解もできます。
では、「群居性霊長類」のヒトが「仲良くする」ということを「影絵」で説明できますか?差し伸べる手は、いじめている手なのかもしれません。

そう、「影絵」では表情が読めないのです。表情が見えてはじめて「なかよし」という事が理解できますね。

で、「利得−損失モデル」というのは競合関係を外在的にしか説明できないのです。「外在的」とは影絵のこちら側と理解してかまわないと思います。
「唯身論」というのは、影絵の内側へ入ります。直接体験によって理解しようという態度なのです。

この論も優れて魅力的な結論で結ばれています。それを引用しておきます。

どんなにもっともらしい整合性を装っていても人間の生きる力を削ぐような理論や学説を、私たちは自らの直接経験の内部から批判すべきである。
唯身論は、仲間と安寧に生きたいという当然の願いと深く響き合う、実践的な思想として可能性を秘めている。

つまり、グローバリゼーション、あくなき資本の欲望への異議申立てとして立ち上がった理論なのですね。

「影絵の中へ」。なんとも刺激的な視点でした。


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