| 2002年11月21日(木) |
生命は競争ではない。 |
この稿は書き直しになります。一度書いていてアップ寸前で全部消えてしまいました。。とまぁ愚痴を呟いたところで先に進みます。
京都新聞の「知の新潮流」…「非力に生きる」のその後です。気鋭の論客がふたり登場しました。社会学の立岩真也さん。セクシュアリティー理論、美術理論の田崎英明さん。立岩さんは分配の認識の再考を、競争の前提を崩す未来を提案しました。田崎さんは生態学の理論の援用から「人生は競争ではない」と説かれます。
「進化論の最大の教えは『生命は競争ではない』ということだ。これは逆説でもなんでもない」
この刺激的な書き出しから始まる「田崎論」を紹介しながら考えて見ます。 生命が生態系の中で占める位置を生態学ではニッチというそうです。で、これは新たな生命が誕生する時、あらかじめ「イス」や「ベッド」のように、あらかじめ「あるもの」ではないのです。つまり、生命というのは自らの「居場所」を創造しながら生まれてくるのです。彼の言葉によれば 「新たな生命の出現は、それ自身のニッチの発明を伴っている」
しかも、単独ではありません。生命相互の作用によってはじめて生成されるのです。具体的な例として、ある鳥と花を例にあげています。 くちばしが鋭く細長くて、湾曲している鳥はある一種類の花の蜜を吸うことだけに適している。ほかの虫や鳥が届かないほど細長く鋭い花弁を持ったこの花に、この鳥だけが適応して進化したのではなく、花の方もこの鳥だけが蜜を吸えるようにどんどん花弁を細く長く伸ばしていった、というのです。
<生態系の中ではある生き物の居場所自体がもうひとつの別の生き物であって、どちらも固定した存在ではなく互いに変化し、自分自身のニッチを発明しつつ誰か別の生き物のためだけの場所へと生成していく>のです。
自分の居場所を発明し、命は世界を新たにするのですね。
一方、競争とはその居場所を発明するのではなく、他者から居場所を奪い取る能力です。たとえれば「イスとりゲーム」です。 新たなものを創造するのではなく、すでにできあいの場所をとりあい、他者からうばうことです。当然、創造はありえないわけですから、世界は意味においてもスケールにおいてもまったく豊かになりません。それどころか同じ「居場所」のとりあいで、消耗し古びていくのは必定です。
田崎さんは今、世界中で「自分の居場所を発明する能力」と「他人からその能力を奪う能力」の闘いが続いているといいます。 その事を考える手がかりとしてカフカをあげています。カフカにおいては「虫になることができる」「こびへつらい懇願し待ちつづけながら、小さくなることができる」というような普通、能力とは認められないようなものも能力と認めさせようとします。だから、どんなことでも、例えば「人とうまくコミュニケーションがとれない」とか「世界になじみきれない」というものでさえ「能力」として捉え、居場所を発明するために使いこなすんだ、と。
これは刺激的な論ですね。「適者生存」理論は確かに大きく揺らいではいますが、生態系とはまさに多様性と相互性の世界だったんですね。それぞれの居場所=ニッチを創り出すことが生命の為す事だとしたら、競争とはなんと不毛な。
田崎さんの論は、散文詩のように結ばれていくのですが、これがあまりに綺麗なので引用しておきます。
<マス・メデイアを通じて世界に向けてメッセージを語るものは誰のための場所も発明しない。だが、雑踏の中で、消え入りそうな声で、くちもとに耳をくっつけなければ聞き取れにいように呟く者は、確かに私のためだけの場所を創り出している。そこには新たなニッチがあり、世界は新しくされる。
競争によって、日々古びていくこの世界の中で、戦争が続き、人々は住む家を失い、傷つき、心と体の傷口からは涙と血が流れつづける。それにもかかわらず 「あなたがそこにいる。あなたはここにやってきた。世界は一新された」と呟きたくなる一瞬があり、世界で何が起ころうとも、この世界そのものは祝福したくなる瞬間がある。>
さらに続きますが、この論はとても魅力的でした。自らの「居場所」を発明し、それが他者の命そのものになるとしたら、ぼくは西行を連想しますね。あるいは砂漠の聖者、菩提樹の下の聖者などを。 とまれ、そのように括りをおおきく捉える必要はなく、問題は我々なのです。
確かに古びたイスのとりあいでは、世界は消耗していくだけでしょう。 誰かが自分の居場所を発明した時、世界は一新されるのです。おおげさではなく文字通り。
じつはこのことは最近のぼくの書くことに通底していることでもあります。自分らしくあることに、誰もが躊躇する。その不正と哀しさ。あいての居場所を引き剥がすことでしか生きられない悲劇。しかも、本人は自覚していないどころかそれが正しいと信じている。 とにかくそこから…離れることだと。固定されず変化しつづけしかもそれは自分であるというヴィジョン。
生命のありかたに素直でありたいと考えることにこそ、可能性が開けるのだと思うのです。自らの「居場所」「ニッチ」。固定されず変化しつづけ相手を生かし自らも生きる。 そんなヴィジョンを見ています。 「非力に生きる」。明日が最終回です。また、紹介できればと思います。
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