まさに紅葉たけなわの京都です。 とんでもない人の洪水にもかかわらず街中が色づくこの時期は、この街に住んでいてよかったと思います。 昨日の強い風でイチョウの黄色い葉はほとんど飛ばされてしまいました。近所のイチヨウ並木でも、道路が落ち葉に埋め尽くされて、とても綺麗でした。掃除は大変ですけれどね。
嵐山、東山界隈、哲学の道界隈、北山、大原、鞍馬、御室、…どこにいっても素晴らしい紅葉に出会えます。平日は人も少なく街中のどのお寺に行っても溜息が出るほど綺麗な紅葉です。
いつも日記に紹介する京都新聞ですが、昨日から「知の新潮流」シリーズの第五部がスタート。各界の方がテーマに沿ったコラムを書かれていてなかなか興味深いシリーズなのです。 今回の小テーマは「非力に生きる」。5人が論じます。
テーマの「前書き」を要約すると次のようになります。
「生き残り」を求めて競争が激化する社会。より能力にすぐれ、主体的、合理的に働ける人間が求められる。しかし、競争は結局、少数の勝者と多数の敗者に行き着く。ならば、弱い人間はどうすればいいのか。「弱くても大丈夫」という発想から出発できないだろうか、と。
昨日が第1回で哲学者の中島義道さん。この人の歯に衣着せぬエッセイが好きなんですが、ここでも中島ワールドが炸裂。いわく、「欠点を伸ばせ」。
氏はこう書きます。 自分自身で忌み嫌っていた自分の欠点が自分を救ってくれた。病的なほどのナルシシズム、人間の浅はかさ・醜さ・冷酷さを抉り出して見ようとする姿勢、物事をいつも悪いほう悪いほうへ見ようとする姿勢、それらが哲学をするさい、物を書くさいに大いなる宝になった。
どうしても治せない欠点ならそこに居直って見たらどうか。欠点を伸ばし、欠点を通して生きる糧(仕事)を見出す。厳しく重たい人生もありうる。それもまた疑いなく輝かしく豊かな人生である、と。
今日の論者は精神科医の香山リカさん。彼女は今、精神科の臨床の現場で「解離性障害」=人格の統合が失われる傷害=の多いことを強調される。 患者は普通の大学生やサラリーマン。訴える症状は「現実感のなさ」「生きている実感のなさ」、酷くなると記憶がなくなる。 …「恋人と喧嘩して刃物まで持ち出したらしいんですが記憶がないのです」。
人格の統合を簡単に放り出す若者が多いという。 約束も宣言もその時だけ。それを嘘といってはいけないのです。した時の「わたし」と今の「私」は違うのだから。 こういう人達に「自己責任、自己決定」なんてまったくの無意味。
何故そうなったのか。がんばればなんでもできる。自分でなんでも出きると喧伝され、その気になっていて、現在のような厳しい社会状況のなかで、できない時にどうすることもできなくなったということだと思います。 あまりにも幼い頃から、プレッシャーを受け続けているからなのでしょうか、「できない今の自分」を受け入れられず「もう一人の自分」を生み出していくわけです。できないと抹消、できないと抹消。その繰り返し。そしてそのサイクルがひどくなっていく。自分が何をいったのか何をしようとしていたのか、完全に忘れてしまう。 実はそうやっていないと自分を守れないのです。
香山さんはなにも「強固に統合された自己」でなくていい。「ゆるくまとめられた自己」で現在の社会的危機を乗りきる道があるはずだ、と結んでいます。
ふたりの考えを読んでいてぼくが思ったのは 「本来の自分を変えるな」ということ。多少、頑固・偏狭といわれても自分の人生なんだから。ただし自分の思考や認識の枠はどんどん広げていくこと。そうじゃないとつまんない。 自分らしさにこだわる、と言ったらいいのかな。 明日の論者も楽しみです。
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