| 2002年11月06日(水) |
紙の上の散歩〜「小林秀雄的野蛮さ」 |
「紙」。今日は新聞です。 署名入りの記事で面白かったのは、小林秀雄の「新しさ」を書いていた、石川忠司さんのコラム。「新しさ」というのはぼくの感想で、石川さんは小林秀雄の凄さは『「無教養」にある』と書いておられます。
漱石、鴎外など、明治の文学者達はその圧倒的な教養の上に文学を展開していた、と。しかし、小林秀雄の世代になるとその知識人の伝統は絶えており、そこで、教養を身につけた上で文学者になる、というスタイルをぶち壊して、印象批評を確立したのが小林秀雄だ、というのです。
学問でも研究でもない批評。批評的散文というのはじつに、小林秀雄が確立したといっても過言ではないでしょう。教養が身につくのを待っていない。石川さんによれば「無教養の上に開き直ったことが偉い」んだそうで。 そもそも教養の何たるかを論ずるにはあまりに浅薄なわたしではあるけれど、それこそ「小林的な野蛮」に近い感覚で「理解」できます。
モォツァルトを論ずるに、大阪道頓堀での通行中に天啓のように突然メロディがアタマで鳴り響いたんだ、というくだりなど、身震いするほどの迫力がありましたから。こんなことを、たぶん小林秀雄以前のクラシック批評家が論じてはいないだろうと思います。
これはだけれども、ぼくらの世代には近しい感覚です。手ざわり、実体感がなければ信用しない。あまりに嘘くさい世界を疑いながら成長してきていますからね。 たとえば矢沢永吉が、全然レコードというものを聞かないであれほどの楽曲を作り上げていった感性と似ています。
だから本を読むな、レコードを聞くな、というんじゃなく、自分の直観をもっと信じよう、というコトなんです。教養がなんぼのもんじゃい、書くのはおれっちじゃけんのう、みたいな。(どこの言葉ぢゃ)
本を読まなきゃ本の事はわからないし、ビートルズを聴かなきゃ天下のyazawaも存在しなかったんだから。自分が生きていく中で受けた感動にこだわる、と言ったら良いのかな。
今年から小林秀雄賞なる文学賞が設立されました。第1回の受賞者は斎藤美奈子さんの「文章読本さん江」と橋本治さんの「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」のふたつです。ともに、題材を思いきり自分にひきつけていて、「おもしろい」。
「小林秀雄的な野蛮さ」…。とても面白い。
さて、毎週火曜日は書家・華雪さんのコラム「石の遊び」の日。 (だからね、火曜日は凄いのよ。夜は松本隆さんの番組があるしね。) この日の篆刻は「言」。短いコラムはなんと、詩人の吉増剛造さんの朗読のことでした。ぼくは彼のリーディングは一度「体験」して、ノックアウトされた経験があります。こないだ見た「詩のボクシング」の誰にもなかったテンションがありました。緊迫感といってもいい。言葉が文字通り吐き出され、こぼれ出してくる感覚。 やがてよじれて絶叫するからだと声と。それを想いだして背筋がぞくりとしました。この人はこうやって言葉を繰り出してそのまま死ぬんじゃないか、と本当に思いましたね。 華雪さんは「その夜はいつもより闇が深いと思った」と結んでいます。 まさに「小林的野蛮さ」でそれがすぐにビシっとココロにうがたれた私であったのはいうまでもありません。
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