| 2002年10月17日(木) |
読むべきことは、向こうからやってくる。 |
最近、詩を書いていません。いや、書いてはいるけど気に食わないのです。 「気に食わない」ことの実態は自分の書いたものが果たして「詩」なのかどうか、わからなくなってきたから。
自分のwebsiteにたくさん「詩」作品を並べている。にもかかわらず、です。 昨日もひとつ書きました。それが「詩」なのかどうか、やはりわからない。小説でも散文でもない。あえて言えば散文詩か…。
そんなこんなで中断。 16日付の京都新聞の文化欄を見てます。「人物点描」にゴザンスの深水英一郎さんが写真入で紹介されています。ゴザンスの成り立ちについて、今後のめざす方向について語っておられる。もう京都に住まれて6年になるとか。やっぱり「新しい」。
そのうえに田口ランディさんの不定期の連載、「ランディ今を行く」が大きく紙面を割いています。今回は「地域通貨の現状と夢」というタイトル。千葉の「ピーナッツ」の紹介。お金という価値観を否定するのではなく、それとは違う価値を「流通」させることで人の繋がりが豊かになっていますね。これも「新しい」。
その下に詩人・鈴木志郎康さんの「詩の風景」というコラム。シロウヤスさんは自らの詩もどんどん自らのサイトで公開されています。また、氏のサイトで詩を公開されている詩人も多いです。紙の上を否定するのではなく、そうではない詩のあり方を提示されている。しり込みする人も多いだろうけれど、これも「新しい」。
(あ、ここで中断。続きはお昼過ぎに…。) (お待たせしました。)
志郎康さんのコラムは「浮きあがる足の先」というタイトルで詩を書きながらその成りたちの進み方までを併記しています。これで詩なのか?どうか。 ぼくにとっては「詩」でした。だから、「詩」なのでしょう。
そもそも詩というのは、書き手がそう思うだけで、読み手がどう思うかはまったく不明だし、思うべく強制できるものでもないです。 志郎康さんの詩はいつも柔らかなスタンスです。学生のころから読んでます。久しぶりに新しい詩集でも読んで見ようかな。
さて、新聞紙面の右上は井上雅人さんのコラム。「物作りと物使い」。自分で「作って使う」体験の必要性を書いておられる。思考のプロセスを形成するのに重要なのと、実際にそれを使うことで使う人のことを考えるようになることが重要だと強調されています。特に後者が。 つまりそれがコミュニケーションだ、と。それによって自分が好きなことを表現するだけではいけないことがわかる、とおっしゃる。
「『自己表現』や『自己発信』だけが声高に叫ばれますが、表現や発信を目指す人には、それを受け取る人がいるということを、真摯に考えてほしい」(京都新聞)
さて、この4つの記事はすべて同じベクトルを向いている気がします。 「コミュニケーションのあり方」です。硬直化した価値観、不毛な閉塞感、エゴイズムと傲慢さ。 いいかげんそういうものから「Another」に踏み出さなければ、つまらない。
自分の書いたものが「詩」であるかどうかは重要なことじゃないのです。書くことで「人」と繋がれるかどうか。(たぶん怖いんだと思います)大事な事はそれだけなんだと思います。 踏み出さなければ。 やっぱり。
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