先日の「詩のボクシング」。ただ笑っていただけではなくて、いろいろな問題を考えさせられたものでもありました。 少なくとも紙の上の言葉と声による詩は決定的に違う何かがあります。あるいは、詩人はパフォーマーでなければならないのか、とも。
肉体によるフリや声を通すことで、言葉はまったく違う顔を持ちます。むしろ、それこそが詩人が言いたい「ほんとうの」言葉なのかもしれません。 紙の上の文字が持つ美しさや、その孕む意味の豊かさはまったくなくなり、音の繋がりの中で詩はあらわれてきます。
目ではなく耳を通じて、はじめて像を結ぶ言葉。 これは「歌」じゃないのだろうか。それともこれが本来の詩、なのだろうか。 そんなことを思っていました。 よりシンプルで「直接」にむかう言葉たちを気にしながら。
アルファベットやハングルは表音文字だから、それほどの落差はないと思うけれど、表意文字の漢語をつかう言葉は紙と音のみだと落差があります。 詩がすべて「ひらがな」ならば、詩は目だけでなく、たとえ無音の紙の上であっても耳のフイルターを通って行くでしょう。
詩の成り立ちそのものに「声から入る」という前提を置くと、大きな変化が起きる気がするのです。 「声」をどう考えるのか。大きなテーマをもらった気がします。
やはりオブザーバーとしてバァのカウンターから参加していた映画監督の井筒和幸さんが、番組の終了間際に呟いた 「美しい言葉が聞きたい…」という言葉が、ずしんと残っています。 過剰、とも思える言葉の洪水の後だけに余計。
活気があって、笑いがあって、大いに結構。ぼくも楽しみました。だけど「美しい言葉」を忘れてはいけないな、と。
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