∈電池が切れるまで∋ |
2003年07月30日(水) |
昨夜も朝方まで眠れず、しんどかった。 体がスッキリしない。疲れというか、重さが蓄積しきってく感じ。 首が痛い。頭も痛い。昨日の通院の疲れかなぁ。 ずっと冷えピタを貼ってます。
午前中に、4年前に足の腫瘍のオペで入院した時に、整形外科病棟で一緒にいた『仲間のお母さん』からお電話があった。 母が出て、それからずーっと長く二人で話していた。 あの頃は、あたしも歩行器で歩けていたから、今のあたしの状態を聞いて、今はチェリーちゃんととても会話できない。。。と、そのまんま切ってしまったよぉ。おーい!!あたしもぜひいっぱい話したかったのにぃぃぃ。
まっいっか。今度は、自分から電話かければ。
同じ腫瘍で、4年間入院されておられた仲間さんが、先日退院されたとのこと。 よかった!!!とホッとしたのだけど、でも、追い出された。。。って納得のいかない退院だったのだと・・・。
化学療法の後、下肢を切断されて、他に難病も患っておられて、なかなか経過が順調にはいかなく、丸4年の入院生活。 ようやくこれからリハビリって時に、「足がないのに、どうやってリハビリをするの?」と、ドクターに言われたらしく。
おいおい。。。って、感じだよ・・・。
今は、『仲間のお母さん』の家の近くの、病院でリハビリをしておられるのだけど、紹介状は書いてもらえなくて、病気の経過がよくわからないから、それもなかなか。。。な毎日で。
はぁー。と、悲しくなったよ。
人のことどころというわけではなく、自分がブルーだから、周りのブルーもついついわかり過ぎてしまうくらい、辛くて悲しい。
最近、生きることばかり考えてしまう。 ばかりと言っても、いつも考えてるわけではないのだけど。 情緒不安定というか、心が不安でいっぱいになって辛い。
こうして家でいると、気分の転換というのが、乏しい。 ちょっくら出かけて、外の空気だけでも吸うと、スーっと楽になれるのだけど。だからといって、体調が辛い時は、それ自体も、しんどくなる。 取り残された気分になっていく。。。
今、あたしの心の不安とかは、当たり前のことで、自分が弱いからとか、病気だからとか、障害だからとか、再発や進行や、理由や責めるものは何も必要ではない。と、思っています。
おとついくらいだったかなー。 テレビで、ワイドショー番組で「安楽死」について、トークをされていた。 小難しい番組ではなく、ワイドショー内の話題に出てくる程、身近なものなんだなぁ〜と。ちょっと驚いた。
ほとんどの方が「寝たきりに(自分が)なったら、ほっといてもらいたい(延命はしない)。」と言っておられた。 でも、家族がだったなら、「できるだけの治療を、精一杯して欲しい。」のだそうだ。
あたしは、今だから素直に言うが、死にたいと思ったことがある。 そして、このまま寝たきりになってまで、生きる意味があるのだろうか?とも感じた。
だけど、今は、死ぬのは、悔しいって思いがある。自分の人生に対して。 それよりも、やっぱり、死は怖い。 たとえ寝たきりになったとしても、周りのサポートが整えば、社会の中で今まで通り生きてくことができるのだから。 今はまだ、社会がこれからの介護時代のニーズに追いつこうとしている第一歩だけど。
「周りに迷惑をかけたくない。重荷になりたくない。」 その言葉が、今のあたしには、重く感じた。
あたしは、生きてていいのだろうか・・・?と、問われているようで。
今のあたしは、まるっきりの寝たきりではないけれど、でもほぼそれに近い状態だ。 人の介護がなければ、座る、起きる、車椅子に移る。一連の行動が何一つできない。 でも、できることも、まだ限りなくある。 こうしてPCをする。メールで話す。本を読む。フォークを使って、ごはんを食べる。 だけど、それは、車イスに座らせてくれる人がいて、本を本棚から出してくれる人がいて、食べやすい食事を作ってくれて、持てない重さのコップならば口元まで運んでくれる人がいるから。
迷惑や重荷って、いったいなんだろ? それを排除していく社会ならば、たとえ健康な人であっても、みんなが幸せになれない気がしてならない。
個を重視される現在社会だからこそ行き着いた、これからの重い課題のような気がする。
人が生きるって、何?
午後から、訪問看護で、あつーいタオルで清拭をしてもらって、スッキリです☆ 何ヶ月前かに読んだ、「電池が消えるまで」の本を、看護師さんが読みた〜い!!と言っておられた。 娘さんに読ましてあげたい〜と。押入れの書庫(ダンボール箱)から探して、今度ぜひお貸したいなぁ。 たしか、ここにも書いたような・・・院内学級の子供たちの命の言葉が聞こえてくる本なのです。
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