2002年08月29日(木) |
何とあわただしいこと |
昨日の日記を翌朝つけるということを続けていたし、はっきりした曜日の観念がこの一月はまったくなくなっていた。
enpituの日記をこのまま続けるのはどうしたものだろう、、と今日ふと考えてしまった。
しかし、自宅でのターミナルケアのこともこれから考えてみたいし、やはり必ずおとずれる母や夫の老いと死と(もちろん自分自身の)を見つめるところにしよう。
40のときは生きているのが妙にむなしい気がしていた。 さりとて死を望んでいたわけではない。 このまま死にたくないという漠然としたものだったけれど。
よく知人に’Yさんは幸せよ’と言われたし、たぶん「したいことしかしない」と傲慢に言い放っていたし、事実”逃げ”はお得意だし、、、ひそかに息づいていたいと乙女チックな気分で暮らしていたかもしれない。
実は、尾崎 放哉のような自死にひそかにあこがれていた。 孤高の死のように思えたから、、自殺なんてものに比べ、生易しくない己が死を見つめ続ける行為はとても壮絶だと思う。
でもねー、、、それさえも、もういいかもしれない。
葬儀につかう写真ひとつどれでもいいのだ。生前に考えておこうなんざ こんな長生き国になったからだし、ほんとは誰はばかることなく死んでいけるんだ。誰はばかることなく死んでいけばいいんだ。
「あとは人 先は仏に まかせおく おのが心の うちは極楽」
貞心尼のこの歌をもう一度こころの奥深く反芻すること。
ほんとうになんにも選べません。生きているうちがはなですが、いつもお隣さんは”死”なのかもしれません。
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