ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年05月13日(金) |
衝動と羅針盤・・学校教育の欠落と理想 |
一般的に学習というのは教え、学び、習うという形で考えられている。 しかし、実際に何か行動や知識を身につける場合に、これらの全てが不可欠というわけじゃない。 乳児が乳房に吸い付くのは誰から教えられる訳じゃない。寝返りはどうだろう?這い這いはどうだろう?「学び」という言葉が「真似る(まねる)」という言葉から来てるとするなら、寝返りや這い這いは親が手本を示してそれを真似る事によって身についたという訳でもない。這い這いの手本を示す親など僕は知らない。乳児の中に既に衝動は有るのだ。それを乳児自身の活動・試行錯誤によって習熟して行くのだ。子供自身の中に衝動は有るとは言え、自身の行動によって習熟する必要があるけれど、成長するに従って子供を取り巻くものの影響は大きくなって行く。真似るの要素が少しずつ大きくなって行く。子供の遊びは年長の子供が遊ぶのを真似て覚えて行く。年長の子供が教えるという要素もここには有る。学ぶのは楽しい!遊ぶのは楽しい!子供の遊びの世界というのはおとなの世界とは違った独自のものを持っている。ままごとやかごめかごめをするのは子供であり、おとなの遊びではない。おとなも参加する事はあるけれど、主体ではないし、かごめかごめをするおとなをみて子供が覚えたという訳でもない。子供時代は遊びの時代だという事をおとなが教えた訳でもない。子供の中に衝動や羅針盤のようなものが潜んでいるのだ。 衝動や羅針盤は固定的なものではない。 例えば、身近な生物に対する興味の芽生えが「ダメ!ダンゴムシなんか触ったら汚いでしょ!」の一言で挫けてしまう事も有り得る。「泥んこ遊びをしたり、ダンゴムシさんに遊んで貰ったら御飯の前に手を洗ってね!」であれば挫かなくて済むだろう。強化されたり挫かれたり教化されたり移り変わったりするのだ。 教育・学習を考える時にこの衝動や羅針盤の存在を考えないなら、その成果は非常に貧しいものとなる。現代日本の学校教育では実にその点がほとんど考慮されていないのだ。子供は成長する存在であり、好奇心に富み、おとなのような力を得たいと願っている。衝動も羅針盤も存在している。 「勉強しろ」と子供に言う教師やおとなは勉強嫌いを作る。無理に勉強してもテストの後は忘れてしまうような底の浅い学習となりやすく、弊害も多い。 羅針盤を教科に向け、衝動を挫かせぬように配慮する教師やおとなは自然な秀才を作る。「ドラゴン桜」はこのような試みの一例とも言える。しかし、羅針盤の向きは学校教科にむける必要がいつでも有る訳でない。 自分自身の羅針盤を大切にし、衝動を発揮させるなら独自の文化を切り拓くだろう。
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