ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年05月12日(木) 僕にとっての大学

きのうの記事で東大入試コミックを紹介したので、僕自身の大学に対する姿勢についても書いておこうと思う。

僕は大学生としてはロクに勉強しない人間だった。
大学紛争華やかなりし頃の大学生で、サボるには便利だった。
毎日電子顕微鏡室(そこに友人が勤めていた)でブラックジャックをして大負けしていた。
僕は昆虫学者になろうとして大学にはいったのだけれど、大学での勉強は好きな昆虫の勉強ばかりというわけには行かないし、昆虫の研究にしても、自分のやりたい研究というのとは違う気がした。僕はファーブルのような牧歌的な研究が好きなのだ。何千・何万という毛虫を温度条件や日長条件を変えてその影響を調べるというのはやりたい研究とは言えなかった(しかし、その研究結果は興味深いものであった)。
僕は大学の授業には殆ど出なかったが、昆虫学教室でお茶を飲み、他の人の実験を手伝ったりもしていた、やはり昆虫は面白かったから・・・
また、高山植物に惹かれてあちらこちらの山でお花見をしていた。フロイト以降の心理学や文化人類学やフリースクールにも興味を持っていたのだから、知的好奇心はあったと言える。しかし、こんな興味の持ち方ではどんな学部でさえもはみ出てしまう・・・
僕がサボってばかりいて、ロクに勉強をしないものだから亡父と知り合いの教授が心配して声をかけてくれた。僕はその教授に手紙を書いた。
内容は大学に対する失望である。
心理学の授業に何故心理学の成果が生かされていないのか?授業を受ける学生の心理が考慮されない授業のあり方について考えようとしない教官に心理学を教える資格があるのか?
他の授業にしても、大学の運営などに関しても、大学という最高学府の学問の成果が生かされているとは感じられない(こういう事を考える時、あなた自身が過ごしたor在籍している学校でも民主主義について教えるはずだが、民主主義が機能しているかどうかを考えてみると良い。学校の最大の構成員である生徒の意志がどれだけ学校の運営に反映されているのか、学習の形にどれだけ反映されているかを)。
こういう事は学校の授業だけを熱心にしている人たちには気付かれにくい。僕は授業に熱心でなかった分だけ、他に人が知らない領域に足を踏み入れていたのだ。
その教授は昆虫学教室の親分の助教授にその手紙を見せた。
助教授は教授に「稲村君は心配ないと思いますよ。」と言い、その理由は「手紙を見ると論理的だから。」という事だった。これは後で聞かされた話だ。
僕は幼い時から成人に至るまでに先生という人々何人にも出会って来たが、この助教授と習字の先生には肯定的な気持ちを抱いている。

そういう訳で、僕は殆どの既成の学校のあり方には疑問を感じている。最高学府の最高レベルの東大にしても同様だ。(東大の卒業生が沢山居る場である国会でどのようなやり取りがなされるかを見るならそのレベルを推し量る事が出来るだろう。正直である事や協力し合うという人間関係は希薄だ。民主主義を標榜するならそうした事を常に心掛けて行動して欲しいものだ。)
というわけで、僕は東大や一流校といわれる学校に入学する事に積極的な意味を感じないし、中卒だろうがやくざだろうがそういう事にネガティブな意味付けをする事も無い。おいしい御飯やアトピーや癌に関して学歴など何の意味も無い。そういう意味では世界は平等なのだ。
平等な世界に、乾杯!


いなっち |MAILHomePage

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