ディリー?闇鍋アラカルト
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2005年05月14日(土) ゆとり教育

子供たちの学力低下が明らかになり、ゆとり教育の弊害だとか言われている。
その前に考える事は幾らでもあると思うのだが・・・
僕は、教える時間と内容の多さが学力と比例するのはその他の条件が同じ場合だと考える。つまり、内容と時間の減少が学力の低下を招いた可能性というのは理解出来るが、内容と時間を減らしたからと言ってそれが「ゆとり」になっているかどうかは???だと言いたい。
ゆとり以前に学級崩壊などと言われていた事は解消出来ているのだろうか?
教師と子供たちの信頼関係は出来ているのだろうか?
子供の問題が出て来ると、おとなたちはどのようにすれば子供たちは良くなるのだろうかと考える。僕はそのような発想をしているからだと考える。
子供たちはおとなの鏡なのだ。子供の学力が低下しているのは大人の学力が低下していることを示す。子供が荒(すさ)んでいるのならおとなたちが荒んでいるのだ。自分自身を省みる事無く子供をどうにかしようと思う事が既に過(あやま)ちなのだ。教える側が楽しく勉強しているなら、子供たちも楽しく勉強できる。教える側が和(なご)んでいるなら子供たちも和める。それが「ゆとり」という事なのではないだろうか?
大学では教職課程を選択すると心理学も学ぶはずなのだが、それが使えるレベルになっていない。講義を受けてペーパーテストで単位は貰えてしまう。しかし、それでは、講義とペーパーテストで水泳を覚えるようなものだ。教職課程の心理学であるなら、ロールプレイなどもみっちりやって、自分の言葉や行動が相手にどのように受け取られるのか実際に体験し合うようでなければ使えるレベルにはならない。
大学生に教職課程の心理学を教える側がその辺の所を分かっているのだろうか?
教える側と教わる側が心を通わせ合い、学ぶ事に喜びを感じられるようであるなら今よりも遥かに短い時間でより大きな学びが起こるだろう。しかも、それは永続的だ。学ぶ喜びを知るものは教えられなくても自ら学ぶようになるのだから・・・


いなっち |MAILHomePage

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