ディリー?闇鍋アラカルト
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僕は“Oh My God !!”というこのサイトを始める以前に同タイトルの宗教の本を書いている。残念ながら出版までには至っていない。 取り上げたのはキリスト教の聖書が中心になっているが、信仰・宗教という言葉の内容に付いてまで言及して根本的な変革を示唆している。 例えば信仰という言葉は、この本では「その本人が信じている事の総体」を意味させている。その人の信じている事の総体は、その行動にそのまま反映されるので、その信じている事や行動の総体を纏めてその人の宗教と定義する。 「右の頬を打たれたなら左の頬を差し出せ」というのが本当にその人にとって信じられる事であるなら、その人はそうするだろう。 「右の頬を打たれたら・・・」について言うなら、僕の場合はその言葉ををまるごと信じている訳じゃない。場合によるとしか言えない。もう一つ言うなら、イエスがそのような言葉を語った前後の流れを無視して、単独にその言葉を真実とする訳には行かないとも考える。そして、その言葉をまるごと信じるのには無理が有ると考える。 そして、信じにくい事を信じると告白しなければならないとしたら、それも無理と考える。 僕はキリスト教徒という訳じゃない。しかし姉はキリスト教系の学校に通っていたし、聖書も読んだ。 僕はイエスという人に親しさを感じたけれど、といって洗礼を受ける気にはならなかった。 処女懐胎も、死して三日のちの甦りも信じる事は出来なかった。それを信条として告白する事など僕には出来ない。 もし、それが真実であったとしても、それを信じない僕の事をイエスなら「そんな事を信じなくったって構わないよ。君だって、脳梗塞やアトピーの患者に誠を尽くしてあげてるじゃないか。そういう人たちの笑顔こそが、信じにくい事を信じると告白する事よりも大切だって僕も思うよ!」って言いそうな気がする。
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