ディリー?闇鍋アラカルト
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2002年09月15日(日) 敬老

 きょうは敬老の日。
 たまには時事ネタも書いてみよう。

 敬老の日だからといって老人を尊敬出来るものかどうかは僕には分からないが、僕自身は敬老の日でなくても尊敬の気持ちを抱いている老人はいる。だから老人である事はマイナスのイメージにはなっていない。
 しかし、日本では老人である事がマイナスイメージを伴っている事が多いように思われる。「ジジイ」と、さほど爺様とは思われない歳の人が馬鹿にされることがある。「トシだから」という言葉も、記憶力や筋肉・運動能力の衰え以上の意味を持って使われる事も多い。「おとなは信用できない!」というのは1970年の若者でもあろうし、尾崎豊の歌でもあろうし、その歌に共感する若者でもあろうし、いつの時代にも多かれ少なかれそのような若者は存在していたと思われる。当然老人は尊敬の対象とはならない。年をとる事自体が忌まわしい事のようであると感じる人もいるだろう。その人にとっては老人とは忌まわしさを積み重ねた人を意味する事になる。現代日本はそのような傾向が強い状態といえる。

 僕の子供の頃、おとなたちは優しかったような気がする。昆虫少年にとって、昆虫に詳しいおとなは憧れの存在であったし、その虫好きなおとなにとっても昆虫少年は可愛い後輩であったのだろう。そして、思春期を過ぎて沢山の本を読むようになると、その著者たちに望ましい先輩の姿を見つけるようになった。身の回りにそういうおとなたちを見つける事は殆ど出来なかったけれど、だからといっておとなたちに絶望する事はなかったし、おとなである事にも否定的になる事はなかった。
 望ましい先輩としてのおとなが身の回りにいなければ、自分がそうした存在になれるようにしようという思いはあったと思う。
 おとなである事自体はそれだけの事。ネガティブもポジティブもその人次第なのだ。

 敬老の日はおとなたちが尊敬されないと感じるおとなたちによって作られたのかも知れない。尊敬して欲しいと思うなら、尊敬に値する人物になれば良いだけの話だ。形だけの敬老など大した意味などあるはずがない。
 
 僕は高校時代から老荘思想に親しんでいたが、老という言葉は歳を重ねた事の意味の他に、知恵有る人という意味もあるようだ。だからこそ、江戸時代の政治は老中が中心になっていたという事になる。僕にとって老子の書は知恵の書でもあった。世の多くのおとなたちのように押し付けがましいことは一切言わず、むしろ自分が抱いていた考えを肯定してくれているように感じたのだ。ここにも望ましい先輩がいた!老子が敬老の日なんて話を聞いたらどのように感じるのだろうね。腹を抱えて笑い出すかも・・・
 

 


いなっち |MAILHomePage

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