たそがれまで
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2004年03月01日(月) 法事





先月は二度の帰省をした。
最初は伯母の三回忌で、
二度目は養父の十七回忌の法要をするために。

養父母の法事は私が行わなければならないから行って当然なのだけれど、
実のところ、伯母の法事には私に声が掛からなかった。
遠いという理由と、家族だけで行うと云う理由。

どちらの理由も納得なのだけど、私は押し掛けるように出かけた。
無論、歓迎はされたのだけど、いろんなことを考えさせられた。

私は今まで、親戚の葬儀や法事などにはほぼ皆勤賞で参列している。
子供の頃も養母は必ず私を連れて出かけたし、ある程度のトシになれば
充分手伝いとしての役目をこなせるようになったから。

母の体調が優れなくなった頃からは、母の代理として参列しつづけた。
だけれどもその場所で、同じ立場である従兄弟達に逢うことはなかった。

私は法事に拘っている。
多分誰よりも拘っている。

法事のしきたりなどにに拘っているのではなく、
参列することに拘っているようだ。


私は母方の叔父伯母達からとても可愛がられた。
皆、我が子が男の子ばかりで、私一人が女の子だったということもあるだろう。
血の繋がらない姪を、皆が娘同然に可愛がってくれた。

だから、
私は伯父や伯母の娘のつもりでいたし
今でもそう思っている。
だからこそ、月日の区切りでもある法事で
感謝の意を込め合掌したいと思う。

だからといって、決して信心深いのではない。
宗教に、現在の葬儀のあり方に、
一番疑問を感じているのは私自身だ。

現に私が死んだら、葬儀も戒名もいらないと言ってある。
言葉だけではダメだろうから、ちゃんと文字として綴ってある。

あの長々しく響きわたる読経というやつに
どんな有り難い意味があるかは知らない。
だけれども、それを聞かなければ極楽浄土にいけないなどとは思えない。
ましてや極楽浄土の存在さえ信じてはいないのだと思う。

だけど読経は心を落ち着かせてくれる。
聞くのが苦痛ではなく、むしろ好んでもいる。

私の中で、法事や読経というやつは
現世を生きている人達の為にあるものだという認識だ。
決して死んでしまった人のためのものじゃない。

もともと宗教というものが、そう云う類のものであると思う。
『死』という、経験したことがないものへの恐怖を
念仏を唱えることによってうち消そうとするものだ。


ん・・っと、とても堅苦しい話しになってしまったけれど、
とにかく、これからも私は法事といえば駆けつけるだろう。
感謝の意を込めて・・・と云えば聞こえは良いが
血の繋がりがないからこその意地も混じっているのが本当のところ。











東風 |MAILHomePage

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