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田口ランディの本に 「いいひとについての考察」というエッセイが載っている。 コレを読んだ瞬間に思わず大笑いをした。 うん、実に的を射ている。
なぜならば私の夫は究極の「JISマーク付きのいいひと」で、 エッセイの中に描かれたが虚像が、正に目の前に存在するのである。
エッセイの中で、「いいひと」はこう描かれている。
「いいひと」は誰にでも優しくて、それなりの自己主張をもっており、 頭もよく、ジョークもうまい。 「いいひと」は「善人」ではないので融通もきけば、いじめっこにもなる。 でも度をはずさない。 「いいひと」は聖人ではないので「損をしない限り」とても親切だ。 たまには損得抜きで親切もしてくれたりする。
うんうん、まったくもってその通り。 夫を知る誰もが、「あの人はいいひとだよねぇ」と口を揃える。 若かった頃も、おつき合いを断られる言葉の中に、 必ず「いいひと」だという単語が含まれていたという。(うん、私も使った) それはそれで決して誉め言葉ではない。 「あなたには何かが足りないよ」と同意語なのだから。 それでも夫は「いいひと」をやめなかった。 いや、止めようなどと考えたことさえ無いのだろう。
エッセイはこう続く。
でも「いいひと」は「いいひと」であり続けようとする。 そこが問題だ。これこそ「いいひと」がもつダークな部分だ。 自分に都合が悪くなっても「いいひと」を演じようとする。
「いいひと」は「いいひと」であり続けることの「快楽」に気がつかない。 この快楽は麻薬のようなもので人の感性をシビレさせてしまう。 感性のシビレた「いいひと」は、自分の心に「イーヒト菌」を発酵させて、 「イーヒト菌」はふわふわと真綿のように他人の心を優しくしめあげるのだ。
「いいひと」は私のために「悪い男」を演じてくれない。「いいひと」は 「君が好きだ」と後ずさりしながら去っていく。はるか遠くに後ずさっても 「ほんとは好きだ」と怒鳴っている。
もうここで私は爆笑で転げ回った。 そうなんだ。そうなんだ。
「いいひと」って、いつでも「いいひと」であり続けようとして 絶対に「悪いひと」にはなってくれない。 夫曰く、「悪いひと」になってくれないのではなく 「悪いひと」に成りようがないとのこと。 そうか?
その後のエッセイの中に、「いいひと」とつき合うと 自分はどんどん「悪い女」になってしまうとあった。 「いいひと」同士にはなれないのだと。 相手が「いいひと」であり続けようとするならば、 自分は「悪い女」でいるしかない。 そうそう、それってけっこう疲れるのだ。
人は対峙する相手によって、いろいろな役割が与えられる。 時として「いいひと」であるこも「悪いひと」であることもある。 だからじぶんの中のバランスだって保てるし、相手とのバランスも保てるんだろう。
でも相手が「いいひと」であり続けると、自分には損な役しか回ってこない。 いつも我が侭を言って、いつもいつも困らせて、 結局自己嫌悪に陥って、どうしようもなく疲れてしまう。
それは「悪い」私のせいでもあるけど、 「いいひと」にも責任がないか?
私は常々、人に「NO」が言えないと書いてきた。 でも夫にだけは、はっきりしっかり「NO」を言う。 なぜ俺だけに「NO」と言えるのかと夫は首を傾げるのだが、 それは夫が「いいひと」だったからだと気付いた。
いつも夫が「いいひと」で、 私が「悪いひと」という図式が出来上がっているからだ。 うん。そうだ、そうだ。絶対そうだ。
つまりね、夫に対しての甘えも我が侭も 全部夫の身から出た錆。 そんなことを言ってみたらば、究極の責任転嫁だと笑われた。
そう、「怒る」でもなく「笑われた」のだ。 「いいひと」もここまでくれば見上げたものだ。 日記に書いていいかと尋ねたら、これまた「書きたいだけどうぞ」ときた。
こうやってわが夫は、日々「いいひと道」を極める為に 精進に励む毎日である。 まあこんな妻がいるってだけで、既に免許皆伝でありましょう。
まあ、ダラダラと書いてみたけれど、一度読んでみて下さい。 田口ランディの「いいひとについての考察」を・・・
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