七竃雑記帳
桂木 炯



 徒然2・・・自己



道を行く人を見ていると
どこまでも強か(したたか)な人が多いと最近思う


平等な世の中なんていうのはどこにもなくて
みんながみんな、何かに追い立てられて
「幸せ」なんていう
どうやっても、個人の解釈だけでしか成り立たないはずの
現実味の少ない言葉だけを追っているように見える


個人個人が描いた「幸せ」の為に
ある一点だけを見て生きているように思えて
本当に強かだとは思えども
強いとは思えず
まして、そうなりたいとも思わない


強くはなりたいと思う
ずっと昔から強くはありたかった
権力の強さでも力の強さでもない
強さ


何かに噛みつき吼える人は
戦っているように見えて強くも見えるかもしれないが
何かを攻撃することで、自己を確認しなければ
やっていけない弱さにしか見えない


それを自分を守る為だとか言っても
どれだけの価値が自分にあって
どれほど自分をわかっているのか聞いてみたくなる


涙を見せない人
感極まると直ぐに涙をこぼす人
どちらも、強いと私は思う


涙を見せない人は、泣くことで
周りの気分を変えてしまう人間だと自分でわかっているから
泣かない


涙を直ぐにこぼす人は
泣くことで、心を浄化できると
感覚的に知っているから、常に平静であろうとするために
泣く


どちらも、次元の違う「強い」で
ただ、涙を訴えるための道具にしてしまう人が多くて
他の手段を使わずにそれだけで訴えようとするから
泣くことが弱いものだと思われてしまう気がする



沢山の違う物を理解しようとしないで生きる
強かさが凄いとは思う思うだけだが・・・

理解はしても、受け入れるかどうかは別の問題で
頭から誰かの信じている物を否定するのは
強かをこえてただの傲慢


それを一つの知識だとして
吸収して、後に知恵に変えて生きていけるのなら
もう少し、軽やかに生きられるだろうに


自分を見失わずに利害を判断して追う
それを強かだというのだと思うけれども
果たしてどれほどの人が
見失うほどの自分を持っているものか?


私は
面倒なことが嫌いで
意見の違う人を納得させるのに骨を折るのが苦手だったり
何か起きたらできれば、回避してしまいたい方で
なのにその割には、要領が悪いのか
貧乏くじをひいていたり
それでも、自分を支えてくれる人は
同じく支えたいと思うし
「誰かの為になっているかもしれない」という
あやふやな自覚で自分というものを確認して生きている
間違いなく弱々しい生き物だと思う

けれども、自分が見えていない自分はどれほどのものか
探しながら、日々を生きては行くだろう

自分は一体なんなのか
探すのが人生なのかとも思う

何よりも、人あっての自分であることは間違いがない
だから、私は強かには行けないんだと思う



優しすぎるのは
何も出来ないことを隠した弱さにも見える
だから
自分を保ったまま人に手をさしのべる人は
強い人であって、強いからこそ
優しく出来る


なら、強くありたいと思う


そんな強さの目標となっている人たちは
周りにも沢山いる、無論遠い所にも
強かな人たちを見ていると
いっそう強く思う


私は、前を向いているだろうか?
氷のようになってはいないだろうか?
刃にはなっていないだろうか?
いつか、これを読み返すときに
自分は何かになれているだろうか?

大人・子供の定義は関係なく
生きている人間は器が朽ちて土に変えるまでは子供で
何かを学習しなければならないのだから


出来れば樹のように
静かで、何かを吸収しては花を咲かせて
しなやかで同じようにそこにあって
親しんでくれる人に優しければと思う


難しい事だけれども
手始めにもう少し、平穏な心持ちでいようと思う
「幸せ」は
少し目線を変えるだけで簡単にそこにあるから
追う必要なんて無いし
ちゃんと今
自分と向き合える暇が与えられているほど
幸せだ



自分の事書くの苦手だなぁ
書けば書くほどまとまらない
また別の機会に書いたり書き足したりしたいんですけどね
自分の覚え書きと、整理のためにね

つーか読んでる人
ワケわからんよね?
ごめんね
なんせ、覚え書きだしなぁ・・・

まー普段気の荒い私も
落ち着いた人になりたいんだよ!!って事です(最初からそう言え/笑)



今日のR嬢;
多分読んでいっとう先に

「わからんで」って
言うてくるでしょうねぇ・・・(笑)

堪忍な!
こんな複雑なやつと一緒で大変やのー


2002年08月01日(木)
自己紹介 目録 手紙



My追加