三楽の仕事日記
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2004年10月01日(金) 附属名古屋中学校研究発表会にて

今日は終日、附属名古屋中学校の研究発表会へ。終日参加は実に久々。授業2時間参観と研究協議会、講演会とたっぷり勉強ができた。

研究協議会で話題になったことについて書いておこう。2時間目の数学の授業で、ある子どもから、黒板に書かれた考え(教師の意図的指名により出されたもの)に対して、「その前に、はっきりしておかないといけないことがある」と授業者にとっても、参観者にとっても、予想もつかないような意見が出された。一気に教室の空気が変わった。とても良いシーンで、日ごろから一人一人の意見を大切にしながら、テーマである探求心を育ててきた証でもあるなあと感心をした。そのシーンが発端となって、協議会が盛り上がった。

ある方はそのシーンをとりあげながら「集団追究の限界」と評した。授業を個人追究、集団追究と分けることは、子どもの学びを保証する点ではナンセンス。追究の時間として、子どもたちが疑問や意見があったら自由に教室内で動けばいい。子ども同士の自由な学び合いを保証していたら、あの生徒の疑問は集団追究の時までに待つことなく、もっと早い時間に解決もし、学びは教室全体に広がっていったはず。このような提言があった。

附属OBとして早々に協議会で発言することは・・・と思い、議論をしばらく聞いていたが、「集団追究」に限界があるように「個人追究」にも限界があることを忘れてはいけない。もちろん提言のように、子どもたちが進んで学び合うような集団づくりをしたいものだ。しかし、それができないので、教師がコーディネータとなっての集団追究があるのではないか。個人追究の場面で、子どもたちの考えをできるかぎりつかんで、個々の考えを全体に広げながら、学級全体での学びを創り上げていくところに、自分は授業をする魅力を感じている。授業がたまらなく好きだ!というのも、それゆえである。

協議会では「集団追究の限界」に対して、「教師のつなぎ言葉の研究不足」と意見を述べた。理想を言えば、個人追究の段階であの子どもの考えを把握し、個別対応しておくべきだった。これは共通の課題と考えれば、その場で「ちょっとごめんよ。みんな、考えているところで悪いけれど、こんな疑問を持っている人がいるんだ。すっごい疑問なんだ。先にみんなではっきりしておきたいので・・・」というように、疑問を持ったこと自体を大いに誉めながら、全体に投げかけてやればいい。さらに言えば、子ども自身が、「みんなで考えているけど、この前提はいいのだろうか?」と自分の疑問の価値を感じ、個人追究の時でも「先生、先生」と言って発言してもいい、という文化を作っておくことができたら良かった。「集団追究の限界」という提言は、むしろ、子どもの発言を受ける教師の技術不足で、あれなら、先生が介在しなくて、子ども同士で動きあって疑問を解決しあった方がいいじゃないか、という厳しい指摘かもしれない。自分自身は「つなぎ言葉」と評したが、あのシーンで子どもの疑問をきちんと受けるつなぎ言葉、そして広げるつなぎ言葉があれば、「集団追究の限界」などといった提言は生まれなかったのではないかとも思う。いずれも後からこうして言うのは簡単だが、授業者はもちろん大変である。上述したように惜しいシーンがあったが、2時間とも、参加者としても、とても学び甲斐がある良い授業を提案してもらえた。ひさびさに数学準備室で附属の先生方に授業論も話すことができて、満足な1日。後輩はさぞかし迷惑だったことと思う。

講演の佐伯胖先生に校長室で挨拶。昨夜の会で、佐伯先生に見ていただいた自分の附属での授業が話題になったとのこと。もうかれこれ10年前の出来事。いまだに話題にしていただけることは、うれしい限り。もう一つ、廊下である方から声をかけていただき、「先生のここ附属での授業を良く覚えていますよ。あのときは毎日でも授業を見に来たかった」と言われた。こう言われるのも子どもたちのおかげ。授業中は言いたいことをいい、みんなでねばり強く追究する子どもたちだった。感謝、感謝である。

佐伯節たっぷりの講演を聞いて、飯島さんと石川さんとで喫茶店に。12月25日のGC研究会のプログラムの再検討。互いに熟考の上、とても過激な、面白いプログラムができた。講演の杉山吉茂先生をはじめ、シンポジストのみなさんも聞いたら驚くだろうな!という内容。旗振り役の石川さんに全面的に協力することを約束して解散。

帰宅途中から、体がフワフワするような感じとなり、早めに横になる。今日は書きたいことがいっぱいあるのにと思いながら。そうそう、学校HPの更新依頼メールが2通。連続更新記録は続く。


2003年10月01日(水) 総合で取材活動