最近、ちょっとした罪悪感がある。 早くも、祖母の死を忘れつつあることに対して。
最初は、祖母の写真を飾ってあるあたりを通るだけで、涙ぐんでいた。 悲しいから、写真から目をそむけたりしてた。 お茶をあげるときは、色々話しかけていた。
でも近頃は、あまり意識することがなくなった。 祖母のことを考えても、泣くこともほとんどなくなった。 お茶をあげる行為自体も、想いがあまりこもっていなかったかもしれない。
同じような話を人から聞かされれば私は言うだろう。
それが人間というものだ、と。 生きるというのはそういうことだ、と。 忘却は人間の能力のひとつなのだ、と。 泣かないことは裏切りではない、と。
でも私は罪悪感を感じている。
妹が占い師に見てもらったらしい。 言われたことは、大体以下のような感じ。
・お水が欲しいと言っている ・言い残したことは特にない ・最期の瞬間、怖かったことだけわかって欲しい みんなにとっては一瞬でも、祖母にとっては長い時間だった ・亡くなった場所は、居間 ・家を建て直してもらう必要はない ・残された家族の夢に現れたのは本人
”怖かった”ってのがショックで、久々に泣いた。 でも、本当にそうなんだろうな。 ”一瞬だったし、怖くなかった”って言って欲しかったけど、 そういうわけにもいかないね。
今朝も、お茶をわかしたときに、祖母の前にお茶を供えた。 いつまでこの行為が続くのだろう?と思った。 そのうち形骸化してしまうのではないか? 永遠に続くのだろうか?
血縁者を祀ってあるわけでもないのに、 夫の祖先の仏壇に毎日ご飯をささげ続けた祖母はすごい。
そんなことを考えていたまさに今日、 「おばあちゃんにお茶あげてる?お水欲しがってるって言われちゃった」 なんてメールが妹から来たから、さらに募る罪悪感。
水に呑まれたのに、水が足りないの? 私も毎日は供えないけど。
怖かったってのは、本当なんでしょう。 伝えたいことはそれしかないのかよ! とちょっと思ったのも本音だけれど。
私も妹も、「おばあちゃんは苦しまなかった」と思いたくて仕方ない。 でも、事実はそうではないんだよ、と、 ただそういうことを祖母は伝えたいのだろうな。
祖母が苦しまなかったと思いたいのは私達のエゴで、 実際祖母が恐怖に慄いたのなら、それを心から理解することが供養なのかな。
なんて、たかだか占い師の言葉に左右されすぎだと思うけど。
そろそろお彼岸だし、もう少し祖父母を心にとどめておこうと思う。
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