いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2014年10月05日(日) サイパン・テニアン慰霊の旅 NO2

 今日は、サイパンからセスナで10分のテニアン島を訪問する。ホテルのレストランの朝食は20ドルでバイキング。そんな高価な朝食を食べる位なら、英霊に花束でも買いたいではないか。売店で、1ドル50セントのクロワッサンと水を買って朝食にした。(実は、フロントのソファーで、このチーズクロワッサンの包装を開けるときに、床に落としてしまった。同行者の数名に目撃されたが、自衛官いぬぶし、何事もなかったように拾って食べた!)




 小型機専用の飛行場に着いた。なんと、5人乗りのセスナ機ではないか。そして、搭乗手続きでは、荷物と一緒に各人の体重を計るのだ。同行した、やまと新聞の記者さんは重量オーバーで、人数の少ない便に変更させられた。待合室では、陽気なチャモロ族(原住民)のおじさんが、「恐いぞ!揺れるぞ!」「まあ、大丈夫。最近は1回しか落ちてないから…」と私を脅すのだ。ドキドキしている私を見て、おじさん「お前、空軍だと言ってたろう」と。おじさん!僕は、レーダーサイト(穴倉)担当だよ!


(体重オーバーの記者さん)

 離陸後、10分足らずでテニアン飛行場に到着した。到着口には、この島からイラク戦争などに出征して亡くなった兵士の写真と名前が掲示してあった。なかには、女性海軍兵士や、予備役の陸軍兵士の名前もあり、若くして「祖国防衛」ではない任務で戦死した旧敵国の軍人に祈りを捧げた。戦いが終わったら、敵国の兵士でも礼を尽くすのが武士道であろう。




 テニアンには、サイパン以上に戦跡や墓碑が多い。公園に建立されていた慰霊碑、墓碑に、ご神酒をかけてお線香を焚いた。少し離れたところに、寂しそうに慰霊碑がたっていたので、ご神酒を持って碑にかけたところ、なんと文字のところが、真っ赤に染まったのだ。たぶん、石の成分にアルコールが反応したのだろうが、私には英霊の魂が、ご神酒で蘇ったように思えて、涙がとまらなかった。


(ご神酒をかける前の慰霊碑)

(ご神酒をかけた直後の慰霊碑)

 次に向かったのは、なんと「日の出神社」である。戦前は、この地で日本人がサトウキビの栽培をしていて、6つの村が栄えていたらしい。現地の人々も豊かだったという。その一つの村の神社が「日の出神社」だ。西村先生の太陽の党の英文名は「The Sunrise Party」この神社は、「Sunrise Shurine」。素晴らしいではないか。




 境内には、線路が残っていた。サトウキビを運ぶ汽車の線路が、木の成長により地上から上にあがってしまったそうだ。年月のながれを感じる光景である。




 次に訪問したのは、日本軍の飛行場司令部跡だ。約200名の将兵が勤務していたという堅固な建物の柱は、砲撃のあとだろうか、無残にも折れていた。この場所から近い場所には、広島、長崎に原爆を投下したB-29の待機所があり、実際に原爆を収納していた壕が「歴史記念物」として保存されていた。いまでも、米国では原爆投下が「正義」と見られているようだが、冗談じゃない。






 非戦闘員への攻撃を禁じた国際法規に違反する重大な戦争犯罪である。また、この地が米軍に占領されてからは、東京大空襲など、さまざまな虐殺劇の発信基地となったのが、この場所だ。広島にある「くりかえしません 過ちは」の碑は、この場所にこそふさわしいのではないか。

(広島に投下された原爆)

(この壕から原爆が搭載された)

 西村先生と抗議の日章旗をかかげた。ふざけるな!謝れ!





 まだまだ慰霊の旅は続く。米軍が上陸した砂浜に到着した。海岸には、日本軍が構築したトーチカが残っていた。トーチカの機銃口周辺には、夥しい数の弾痕が残っていた。この中で必死に、米軍に応戦していた兵士の心中を想うといてもたってもいられない。






 次は、海軍第56警備隊玉砕の地に向かった。海から少し上ったジャングルの中に、その慰霊は立っていた。昭和19年7月24日米軍が上陸。同年7月31日生存者400余名にて「祖国の平和と安泰を願い」突撃を敢行した、とある。



 生きては帰れない、それでも祖国のために命をかける。決して戦争を美化するつもりはないが、彼らの純粋な国を想う心に、心より敬意と感謝の祈りを捧げたい。




 テニアンでの慰霊も終盤になったが、天気予報によれば台風19号が近づいているらしい。セスナ機が欠航になる前にサイパンに戻ろうということになり、バスに乗車した。

 ところが、なんとわれわれがチャーターしたバスが坂道を上れずにエンストをしまった。そこで、私は大声で「降りてみんなで押そう」。坂道を登りきれば下り坂で、エンジンがかかるかも知れないと思ったのだ。




 さすが、西村門下生である。誰ひとり文句も言わず、全員降りてバスを押したのだ。(西村先生も!)が、上りが急なことと、バスが重すぎて動かない。すると、中国人だという若い運転手が「知り合いのところまで走る」と、走り出した。実は、テニアンは携帯電話の圏外が多く、この場所からは連絡がつかない。




 ただ、待っていても仕方がない。ガイドさんに聞けば、飛行場まで8キロほどらしい。当初の帰島予定までは2時間ある。8キロなら2時間で行ける。よし歩こう。みんなで、徒歩行進を始めた。歩きながら、みんなで「英霊が帰らないで」と言っているのかな「英霊が行進した辛さにくらべたらどうってことないよな」等と楽しく語りながら、山道を歩いた。

 30分ほど歩いただろうか、遠方からバスが見えた。あの中国人の青年が戻ってきてくれたのだ。いつもは「シナ人」等と言っているのだが、この時はかれの素早い行動に全員が感謝した。ありがとう、青島出身のロジャー!




 無事飛行場に到着して、セスナに搭乗した。帰りの便は西村先生と同じだった。気のいい米国人パイロットに「北朝鮮まで頼む!」と、冗談で言ったら「刑務所に入れられちゃうからダメだ」と、真顔で答えられてしまった。

 早目にホテルに戻ったので、慰霊の旅ながら、暫しお許しを頂き、ホテル前の海とプールに飛び込んだ。西村先生は、プールのウオータースライダーがお気に入りのようで、何度もチャレンジされていた。






 さあ、いよいよ明日の早朝は帰国だ、と思っていたら西村先生の秘書さんが「台風で欠航。帰国は一日延びます」と、情報を持ってきてくださった。ホテル側の好意で、同じ部屋でもう一泊一人50ドルでいいという。アチャー。


(土嚢で水を防ぐホテルフロント)

 これまた、英霊が「もうちょっといてくれ」と止めているのではないかと思ってしまう。




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