いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2014年10月03日(金) サイパン・テニアン慰霊の旅 NO1

 本日から、西村真悟代議士が主宰する「西村塾」のサイパン・テニアン慰霊の旅に参加する。サイパンには日系航空会社が撤退してからは、デルタ航空が唯一成田から直行便を運航しているだけ、という悲しさである。

 毎年、西村塾では海外研修を行っているが、今回は、西村真悟先生の「サイパンに慰霊に行こう」という提案でサイパンに決定した。そして、サラリーマン等の参加者に配慮して金曜日の夜便で出発して、月曜日の早朝便で帰国というハードスケジュールだ。


(両替中の西村先生)

 成田空港は、夏休みの喧騒も終わり、ガラーンとした感じだ。西村先生が米ドルを交換に銀行に行くと、嬉しそうに戻ってこられた。「カウンターで西村先生頑張って!」と銀行員に声をかけられたそうだ。さすが、全国に支持者がいる。


(たまげたDELTAの夕食)

 事前に秘書さんから「夕食は機内で出ます」と聞いていたので、20時すぎの出発まで空腹に耐えていたのだが、出てきた食事に唖然!味の染みいない、醤油だけの焼きおにぎりが二つ、小さなお菓子が一つ、フルーツ少々。
アメリカ人の感覚はどうなっているんだ。まあ、しかし、飢えと戦って散った英霊の空腹を思えば、ご馳走である。あ!すみません、ビールください。

 サイパンに早朝到着して部屋で暫し休憩の後、慰霊の旅がスタートだ。バスをチャーターすると高いので、レンタカーを借りて(15名で3台)の行動である。




 最初の訪問先は、バンザイクリフと名付けられた場所。米軍に追い詰められた日本人が「万歳!」と叫んで絶壁から身を投げた地点だ。随分前にも訪問したことがあるが、慰霊碑の数がさらに増えた感じがする。さまざまな団体や、個人が、それぞれの想いをこめた慰霊碑を建立していく。

 叱られることを恐れず言わせていただければ「慰霊」よりも「自己主張」のための慰霊碑が多い、と違和感を覚えてしまうのだ。慰霊碑を建立する予算があるのなら、いまだサイパンの山中に眠る御遺骨の捜索費用を出していただけないか、とも。いや、それでも、忘れないという慰霊碑は多いほうがいい、とも思ってしまう複雑な場所である。




 われわれは、慰霊碑のなかでもひと際大きいものに跪き、靖国神社のご神酒を供え、献杯と海ゆかばの合唱を行った。日章旗を掲げた集合写真撮影では、韓国人、中国人と思われる観光客が珍しそうに我々の写真を撮影していた。きっと「見てご覧、日本人はいまでも軍国主義なんだよ」と、帰国後の話題にするのだろう。ふざけるな!

 
(ハングルの書かれた観光バス)

 それにしても、バンザイクリフに到着してから、涙が止まらない。あふれるように出てくるのだ。まるで、英霊が「ありがとう」と語って泣かれているのが、乗り移ったようにだ。




 紺碧の空と海の素晴らしいコラボが見れる美しいこの地が、激戦地だとはいまでは想像もつかない。が、我々は忘れてはならない。このサイパンを死守しないと、日本本土が空襲される、と必死に死守をされ玉砕された英霊がいたことを。そして、捕虜となって生き延びることを捨て、日本の繁栄を祈って、絶壁から海に身を投げた同胞がいたことを。

 集団的自衛権という、国際的には議論の余地のないことに大騒ぎをし、国会ではくだらないゴシップ週刊誌のような論戦を行っている、今の日本は、英霊たちにはどう映るのだろうか。情けない。






 次に訪問したのは、旧日本軍の最後の司令部跡だ。山の岩を削って司令部風にしたものだ。この狭い司令部の中で、多くの参謀たちが、本土空襲を行わせないために、サイパン死守の作戦を練ってくださったのだろう。






 また、司令部のわきには、山頂から身を投げたであろう方々の墓碑が立っていた。驚きだったのは、その近くにある日本政府が建立した、と書かれた慰霊碑のデザインの醜さである。






 なんと、碑の真ん中には「骨壷」があるのだ。骨壷に入れて帰国させてあげたい、という想いなのだろうか。慰霊碑のデザインとしては、あまりにも陳腐で、木端役人の「建立した」というだけの仕事ぶりが垣間見れる。だれか「ふざけるな」と、デザインを変更する、まともな大臣はいなかったのだろうか。

 この地でも、また涙、涙の連続だった。英霊の御霊に合掌。


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