憲法記念日と国会会期末が近づき、憲法改正の議論と、集団的自衛権の議論がマスコミや国会で賑やかになっている。憲法改正の第一歩となる国民投票法改正案も可決が確実視され、いよいよ我が国の戦後レジウムの一つであった憲法にメスがいれられようとしている。 現日本国憲法は、昭和21年2月マッカーサー司令官の命に(マッカーサーノート)より、GHQがたった1週間で作成したものを日本政府に「呑め!」と迫り、翻訳し一部修正したものを「日本政府案」として3月上旬に発表した、という極めて乱暴な作られ方をした代物だ。
いうなれば、マッカーサーが日本を占領し、二度と連合国に立ち向かえない「弱虫国家」にするための政治的文書だったのは明らかである。
さきの大戦集結後の「占領中」に、原文が英語で書かれた「意味不明」な米国製憲法を長い間改正もしないで使っていた事は、GHQの作成者らも驚いていたそうだ。
国際法では、占領中に交付された法律などは、占領が終わった段階で無効であると定めている。であれば現日本国憲法は、昭和27年4月28日の主権回復の日をもって「無効」になっているはずだ。したがって、本来我々がすべきは「無効」である現憲法を「改正」するんどえはなく、新憲法を制定することである。
我が日本国民(又は大和民族)は、歴史上憲法を改正したことがない稀有な国家である。聖徳太子の十七条憲法、律令制、明治憲法、日本国憲法いずれもそうだ。国会に憲法調査会を設置した際、与党公明党は「この委員会から憲法改正の発議をしないこと」を設置条件にあげたという。
憲法があって国家があるのではない。国家や国民のために憲法があるのだろう。国家や国民のためにならない、時代にマッチしない憲法は為政者の責任において、改正案を国民に示し、民意をもって改正すべきである。
それにしても、普段は「米国嫌い」の共産党、社民党をはじめとする左翼諸君は、なぜ米国製憲法に「護憲!護憲!」御忠心なのだろうか。まあ、お得意の「ご都合主義」程度なのだろうが…
憲法改正の議論とあわせて「集団的自衛権行使」についても様々な議論がされるようになった。左翼やエセ学者たちは「他国の戦争に巻き込まれる」、「戦争を始める準備だ」と、国際的には実に馬鹿げた論調で反対をしている。
そもそも、米国製の憲法9条を無理やり現実の自衛隊の存在に「ツジツマ」をあわせようとした「政治の無策」が招いた結果だ。現在の自衛隊は間違いなく「戦力」であり「軍隊」であるのは、国際社会では常識だ。ところが長い間、我が政府は、内閣法制局という「たかだか」の官僚組織の解釈を利用して「自衛隊は国内法上軍隊ではないが国際法上軍隊である」という「意味不明」の詭弁を使ってきた。
今回は、この憲法解釈のうち「個別的自衛権」の判断を「集団的自衛権」へ拡げるというものである。自衛権は、国連憲章によって国家が自然に持っている固有の権利、つまり、個人における基本的人権のようなものだ。それを、認めるか、認めないか、議論すらバカらしいと感じる。
報道などでは、米国艦艇が襲われた場合、自衛隊が襲った国の艦艇や航空機を攻撃することを可能にする、と例示されているが、そんな難しいことではない。
僕の家が火事になったら消しに来てね!ただ、その時、君の洋服に火が着いて燃えても、僕は消せないんだ。ゴメンネ!
ということだろう。こんなことを隣り近所でしゃべったらどうなるだろうか。これを「当たり前」だ、としゃべっている能天気国家、それが、我が国である。
この写真をご覧いただきたい。ハイチ大地震の際派遣された陸自救援派遣一次隊(国連ハイチ安定化ミッション)の陸上自衛官と、共に仕事をするネパール軍兵士だ。この自衛官が襲撃された場合ネパール軍兵士は躊躇なく助けてくれるが、ネパール軍兵士が撃たれた場合、自衛官は撃ったテロリスト等に応戦することができない。
このような、不条理を現場の自衛官に持たせて派遣することは、政治の怠慢と言わざるを得ない。「限定的」などという言葉の遊びは官僚に任せて、政治主導で「マトモな国」にしようではないか。
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