いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2011年10月28日(金) 地方自治経営学会研究大会@陸前高田市

 昨日に続き、本日も地方自治経営学会研究大会である。今日は、被災地視察で300名余りの参加者が、釜石市、大槌町、陸前高田市の三班に分かれバスで復興の進捗、被害の状況などを視察した。

 私は割り振りで陸前高田市になり、5月〜6月の「東京都医療救護班」の一員として訪問してから5ケ月ぶりの再訪問となった。はたして復興は進んでいるのだろうか。

 朝7時20分、宿泊しているホテルを出発。陸前高田市へ向かった。参加した議員のなかには、昨晩の背広姿から自治体名の入った防災服に着替えた者もいたが、写真用のパフオーマンスにしか見えず私には違和感があった。

 陸前高田市入口の高台にあるプレハブの仮設市役所から担当の部長さん、係長さんがバスに乗車して案内をして下さった。復興事業で多忙の中大変申し訳ない。


(↑市役所正面玄関)

 最初の説明場所は、被災した陸前高田市役所だ。市役所正面玄関には「東日本大震災被災者乃霊」と書かれた位牌と焼香台が置かれていた。鉄筋3階建て一部4階建ての庁舎の、なんと3階屋上部分まで津波が押し寄せ、4階部分の屋上に避難して職員、市民は助かった、と階段を津波につかりながら逃げた恐怖を部長さんが語ってくれた。


(↑右側の屋上で助かった)

 市役所近くの高田幹部交番では所長の高橋俊一警視(60)が、最後まで交番を守り津波で殉職されたそうだ。定年を4日後にひかえての殉職だった。

 また、防災無線や放送設備のある防災センターは庁舎2階にあり、無線機などが水没して機能しなかったそうだ。いまさらだが、津波の危険のある地域でなぜ防災センターを2階にしたのか、と思った。わが大田区でも新築予定の仲六郷庁舎の機械室を、震災後に設計しているのに、相変わらず地下に置くバカさである。少しは考えろよ。多摩川に近いんだから。


(↑教育庁舎で記念撮影)

 市庁舎正面に建っている教育庁舎では、痛ましいことに市民、正規職員、非常勤職員など100名を超える方が津波に襲われて亡くなった。その惨事の起こった場所で、観光地よろしく写真撮影にいそしむ地方議員が多数見られたことは、とても情けないし、人としての感覚を疑ってしまった。この惨状、この場所で自分自身を入れた写真を撮る神経は「並みはずれ」ている。


(↑市役所正面でも記念撮影)

 海岸では若い係長さんが説明してくださったが、彼は12月19日に住宅ローンを組んで新築の戸建てを市役所近くに建てて被災。家屋は跡形もなくなったそうだ。「もう同じ場所には住みたくない」と悲しそうに話された姿が印象的だった。後で聞けば、津波でお子さんとお母様を亡くされたそうで、言葉につまってしまった。


(↑右側上のクレーンの場所が堤防)

 遠く海の中に防波堤のようなものが見えるが、実はこれは堤防で、震災前の海はこの堤防のさらに100m海側だったそうだ。今は、取りあえず台風などの被害を防ぐ高さ3m程度の防波堤の建設を急いでいるとのこと。

 説明役の係長さんに女性議員が「いま私達が出来る一番の支援は何ですか」と聞いた。彼は「この景色を忘れないでください」と応じた。そして、部長さんが別れ際にバスで挨拶をされた。「どうか忘れないでください。風化させないでください。」同じ言葉だった。喉元過ぎれば…との言葉がある。この景色を、そして、多くの善意で復興に向かっている街があることを、亡くなった家族の悲痛な声があったことを、後世まで語り継いでいかなければと思った。


(↑頑張って!)

 道中立ち寄った道の駅には「元気になります。心からありがとう」との横断幕があった。そして、そこの売店で買った「ありがとう自衛隊」を帰りの新幹線で読んだが、東京到着まで泣き通しだった。被災地での壮絶な「戦い」、被災者との自衛官の心のふれあい等、隣で缶ビールを飲んでいるオヤジに不審な顔をされるぐらい泣いた。

 東京に戻れば、被災地とは無縁の景色が広がっている。いつか、この地も大震災が起き、この景色がガレキとなるのだろうか、そんな想いを持ちつつ、蒲田の居酒屋へ直行。「すみません!生大ジョッキで」ダメじゃん。

 


 < 過去  INDEX  未来 >


いぬぶし秀一 [MAIL] [HOMEPAGE]
 
↑今日の日記は気に入りましたか?
My追加