いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2010年03月10日(水) 元一等陸佐、O町会長逝く!さようなら

 地元とあまり深いご縁がない私にも、3期も議員をやっていると応援して下さる方が少しずつだが増えてくる。そのお一人に、Oさんがいらした。

 Oさんは、元陸上自衛隊一等陸佐(大佐)だった。防衛大学校が出来る前に、一般大学を卒業され、陸上自衛隊部外幹部候補生として入隊された。後には、外務省へ出向し海外勤務をされたり、岡山地方連絡部長(現地方協力本部)など要職を歴任され退官された。

 退官後、しばらくたって「地元のお役に立ちたい」と、町会長になられたのだ。町会長になられてからは、過去のお立場をひけらかす事もなく、しかし、その組織運営の卓越ぶりは、誰もが「さすがに部隊指揮官」と認めるところだった。

 町会の行事や、地元行事では、私のことを「こいつは俺の後輩だから‥」と、地域の方に紹介してくださるなど、「同じ釜の飯」を、いつも大事にして下さっていた。

 愚息が陸上自衛隊の3等陸曹に合格したことをご報告すると、「よし、PKOに行け。そして通信制でもいいから大学に行き部外幹部を目指せ」と激励していただいた。息子は、その道筋どおり、現在ハイチにPKO要員として派遣されている。

 そして、日曜日、ある区管理職からOさんの訃報の連絡があった。O会長との関係を知っていて連絡を下さったという。たまたま、PKOで不在の長男の嫁さんと孫を、実家に送っての帰路だった。

 喪服にも着替えず、O会長宅へうかがった。静かなお顔で、まるで熟睡されているようなお姿だった。白装束はいやだ、背広で逝かせて、との遺言どおり、背広をしっかりと着て、その襟には日の丸のバッチがついていた。

 在りし日のお姿、優しいお言葉、ご遺体を前に涙がとまらなかった。ありがとうございました、と。

 お通夜は、熊谷基地で後輩に講演をしていたため出席できなかたので、告別式に参列した。長い間制服を着用した指揮官の旅立ちには、私も「後輩」として制服で参列しようと決めた。

 予備自衛官として、儀式に制服を着用することは認められている。白い手袋を購入し、ご焼香後、遺影に挙手の敬礼をした。また、涙が止まらなかった。

 最後のお別れでは、ご遺族のご承諾を頂き、天皇陛下ご即位20周年式典で振った「紙製の日の丸」を、お棺の中に納めさせていただいた。

 幹部候補生学校の同期の方の弔辞を聞いて驚いた。O一等陸佐の最後の職務は、なんと少年工科学校総務部長だったそうだ。少年工科学校とは、陸上自衛隊生徒を教育する学校で、私の航空自衛隊生徒隊の姉妹校とも言うべき存在なのだ。不思議なご縁を感じてしまう。

 ご出棺は、合掌ではなく、直立不動、挙手の敬礼でお見送りした。式終了後、多くの幹部候補生学校の同期生、後輩の方々から「制服で送ってくれてありがとう」と、声をかけていただいた。これは、制服の職場にいた人間にしかわからない感情だと思う。

 O会長、お気をつけて!そして、長い間、ご苦労さまでした!さようなら。

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