いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2009年08月26日(水) 陸上自衛隊少年工科学校見学

 今日は午前中、神奈川県横須賀市にある陸上自衛隊少年工科学校の見学会に参加した、これは、旧軍の在郷軍人会に相当する東京郷友会の主催によるもので、参加しないつもりだったのだが、数日前に陸自生徒12期(私は空の18期)の大先輩で、この学校の学校長を勤めたT先輩から「来ないのか」とお誘いを受け、急遽参加を決めた。


 一般の体育会系のクラブなどでもそうだろうが、自衛隊生徒の先輩後輩の関係は自衛隊の中でも「異常」と映るほど厳しい。「1期違えば虫ころ同然」「2期違えばいないも同然」とまで言われる。6期も違う大先輩にお誘いを受けたら、有無を言わず参加するのが、自衛隊生徒の基本?である。

 T先輩は、少年工科学校を卒業し、部隊勤務の傍ら、大学の通信教育を4年で卒業。難関の一般幹部候補生(部外の大学卒業者と試験を競う)として幹部任官。陸将補に任官後、母校の学校長をへて陸将になり第一師団長を勤められた生徒出身者の中でも逸材である。

 自衛隊には17の階級があるが、3士という階級は自衛隊生徒だけが着用するものなので、一般の隊員には無縁だ。また、防衛大学校や、一般大卒業者の幹部候補生は、いきなり下から8つ目の曹長という階級章をつけるので、下7つは着用できない。つまり、T先輩は、この最下級の3士から、陸将という自衛隊最上級の階級まで駆けのぼったことになる。

 自衛隊生徒とは、陸海空自衛隊における中堅技術者を養成する制度として昭和30年に創設され、空は熊谷基地、海は広島県江田島、陸は横須賀市に学校がある。生徒は入学時に自衛官に任官され、給与や賞与が支給される恵まれた制度であるが、政府の総人件費削減の一環として、空自、海自は一昨年で募集中止、陸自のみ存続が決まり、来年度の新入生からは陸上自衛隊高等工科学校と名称も変更になる。

 来年度からの生徒は、入学時から3年生卒業までは非自衛官化(防衛省学生)され、4年生になると同時に自衛官(士長)に任官される。これにより、現在の1年生がもらっている月額給与約16万円が、生徒手当94,900円に減額されるため、人件費削減になるということらしい。まあ、高校1年生に16万は多いと思うのでこれで結構だ。

 学校前で記念撮影を終わると、見覚えのある顔が笑顔で向ってくるではないか。なんと、航空自衛隊生徒の防衛教官である。「見学者名簿にお前の名前があったので会いにきた」と言って下さる。こういう場合は、珍しい苗字に感謝だ。うかがえば、航空自衛隊の生徒が廃止になるので、陸上自衛隊に転勤になったそうだ。高等学校教諭の「防衛教官」は、生徒教育以外に自衛隊の中では職場がないのだ。一部の教官は泣く泣く「教官」から「事務官」に職種変更されたそうだ。

 学校の授業や施設を見学した後「顕彰碑」に献花した。これは、この場所にあった池で昭和43年7月2日に12期生徒78名が、教官・助教指導のもと武装して渡河訓練中に溺れ、13名が殉職した事故の犠牲者を顕彰するために建てられたものだ。


 当時の事情を碑の前で話されたT先輩は、慰霊碑ではなく顕彰碑にした意味を「彼らを慰めるのではなく、褒め称えたいのだ」と、語られた。今は鯉が泳ぐ静かなそして小さな池だが、当時は、隣接する航空自衛隊のナイキ(ミサイル)発射台の盛り土を取るために、大きな沼地となっていたらしい。

 指導教官は、刑事責任を追及され、出家し殉職生徒の慰霊に歩かれていたと聞く。なんとも痛ましく悲しい事故である。私は、実はこの時の報道で「少年自衛官」という存在を初めて知り、興味を持ちだしたのである。(当時小学校6年、叔父宅に居候中)

 今、12期の同期生は皆さん自衛隊を定年退官されている。13名の方々も、亡くなっていなければ、きっとお孫さんに囲まれて悠々自適の生活だったろうに。後輩として謹んでご冥福を祈る。

 


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