いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2008年09月21日(日) 忘れてはいけない!63年前の今日の屈辱を!

 63年前昭和20年の今日、大田区(当時は蒲田区)の穴守町、鈴木町、羽田江戸見町の住民1200世帯、3000名に対し、区長より48時間以内に地域外へ退去せよ、との命令が下された。

 これは、その地にGHQが飛行場(当時は羽田飛行場があった)を拡張駐留するために出したものだった。最初の命令は24時間以内だたが、住民が懇願して48時間に延ばされたそうだ。

 勿論車などない時代、人々は荷車に最低限の荷物を乗せ退去したそうだ。物のない時代、去る家を解体し、その廃材を地域外に持ち出してバラックを作った方もいたそうである。

 48時間後には、退去地域に繋がる橋にはMP(憲兵)が立ち、立ち入ろうとする住民に対し、威嚇射撃までしたそうだ。

 その後には、米軍第808飛行場建設隊が進駐し、大林組、間組などが受注して突貫工事で米軍飛行場が建設された。周辺の糀谷、萩中、本羽田などには軍人用のカマボコ兵舎が建築され、専用の慰安施設AAA(アメリカン アミュ−ズメント アソシエ−ション)が作られた。

 戦争に負けるとは、こういうことだったのかと痛感する辛い歴史の一日である。そして、63年。米軍GHQの情報戦略と、それに見事に乗せられた左翼、日教組などにより「自虐的歴史感」は、わが国に浸透した。

 ありえない人数の南京大虐殺は認めながら、史実の東京大虐殺(大空襲)や広島、長崎大虐殺(原爆)には何も言わず、商業ベ−スだった慰安婦を「従軍」と言い、明らかに米国とGHQに命令され我が国内務省が設置したAAA(米国軍人向け性的慰安組織)には目をつぶる政府と「反日知識人」たち。

 いま、羽田空港の沖合移転に伴う跡地53ヘクタ−ルの処遇と、その利用計画の綱引きが、国、都、大田区と神奈川県などで行われている。しかし、どのような計画になろうとも、跡地はには1200世帯3000人の辛い歴史があることを忘れてはならない。

 大田区も素案を発表した。その中には言葉では「辛い歴史を‥」と書かれているが、実際には何ら具体的なものは書かれていない。跡地が、また羽田の地域とかけ離れた開発至上主義により議論されるとしたら、余りにも悲しい。


 跡地近くの国有地には、当時地域内にあった穴守稲荷神社の鳥居が「所有者不明の落し物」として移設保管されている。さらに、その鳥居から空港側500mの場所には、63年前退去の際、住民の村石鈴乃助さんが植えたアキニレの木が、その辛い日を憂いるように欝蒼鬱と茂っている。



 跡地活用の際には、絶対にこの木を切ることの無いよう。そして、この辛い日を末代に伝えて行く事が我々の務めでもある。国交省の天下り役人と一部の人々の利権のために、この人々の犠牲の土地を使ってはならない。


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