8月1日は、私の父の命日である。昭和42年8月1日の早朝、当時唯一人の肉親だった父が亡くなった。東京の虎ノ門病院の病床で昨日まで話してくれた父が冷たかった。小学校5年生の夏休みのことだ。
父は、5人兄弟の末っ子として生まれた。祖父は中部電力の社員で、名古屋と東京を家族を連れて転勤三昧だったようだ。長兄は東大から日立精機へ(常務で退職)、次男は東大から海軍短期現役5期生として、輸送艦「靖国丸」で南方洋上で戦死。(海軍少佐)3男は、中央大学を卒業後、某有名作家に、彼女を取られ名古屋で鉄道自殺。そして、父は唯一人大学に行かず、 松本高等専門学校に学んだらしい。
生涯、この学歴のことは父のコンプレックスになっていたようで、「秀一は大学に行くように」と、よく言われた。今、時間を作って放送大学に通っているのも、この言葉の仕業かもしれない。
専門学校を卒業した父は、長野の農業学校の教員として働いた。そこで年上の母と出会った。すでに母は、他の男性と離婚していて、娘(姉)がいたが、二人は結婚。上京し、母は公立中学の教員として、父は進駐軍の技師として働く間に私が生まれた。
昭和31年12月2日、私が生まれた日の父の日記には、ただひたすら嬉しい、嬉しい、との言葉が羅列されていた。こんなに喜ばれて生まれて来たのか、と今でも、この日記を読む度に涙が出てしまう。
3歳頃、両親は離婚。私は父と暮らすことになった。母はすぐ再婚し、男の子(弟)を生んだが、父は私が小学校に入学するまで再婚は控えていたようだった。小学校2年生の時に、父が再婚をしたが、病魔の訪れと前後して、新しい母は実家に戻ってしまった。(現在は、この継母とも親しく付き合っている)
父亡き後、止む無く、前述の日立精機の常務たる伯父の家に居候をすることになった。100坪の大きな邸宅に3畳間を頂き暮らしたが、どうも伯母とうまくいかない。洗濯は自分でしなさい、内風呂には入ってはいけない銭湯に行け、等、理不尽な扱いを受けたが、現在の伯父の家の実情を見るにつけ、因果応報、耐えてよかったと思っている。
まあ、父が亡くなったことによって、私の人生は相当の影響を受け、一時期は、そのことを怨んだこともあった。が、よく考えてみれば、父の死があったからこそ、私は自衛隊の高校に入り、多くの友人、先輩に巡り会えた。航空自衛隊で教育を受けたから、米国へ留学する気になった。米国に行ったから妻に出会った。妻に出会ったから、二人の子どもがいる。
米国から帰国した空港が、羽田だったので、大田区に住み着いた。大田区の自衛隊の忘年会で、落選中の松原仁都議候補(当時、現衆議院議員)の隣に座り、親しくなった。その後、松原氏の勧めで、区議になった。
と、人生はすべて、繋がっていることを自分自身の人生で痛感をしている。一見、辛い事であった、最愛の父親の死は、その後の私の人生のすべてと、綿密に繋がっていたのだった。そして、いかなる場面でも、私は「大きな力に護られている」と感じているのだ。
今日は、その「大きな力」の命日。ありがとう、オヤジ!いつも護ってくれて。
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