2005年05月20日(金) |
泣いちまった、母の遺体の前で… |
今日は、朝一番で議会都市整備委員会があった。議会事務局へ「おはようございます!母が亡くなりました」と元気よく入っていうと、皆本気にしない。事情を説明すると、早速役所内に「訃報」をまわす、という。しかし、「訃報」がまわると、いかに「嫌われ者いぬぶし」でも、母親の葬式なら、と香典やら弔電だとか、と悩む方が出るだろう。一緒に住んでいたり、「真っ当な関係」なら、ありがたくお受けするのだが、今回はお断りすべきと判断し「親族のみで執り行い、儀礼は固辞」との文言を付け加えていただいた。
議会が終わり、大急ぎで向かった先は、航空自衛隊熊谷基地。今日は、我が母校、航空自衛隊航空生徒隊創立50周年記念式典が行なわれているのだ。議会があったので、式典には間に合わないが、記念会食にはなんとか間に合った。基地の大体育館には、1期生から50期までの生徒出身者が集まった。
同期18期のテーブルには、懐かしい顔がならんでいる。自衛隊の戦闘機パイロット、警視庁警視、会社社長など現在の職業は様々だが、気持ちは15歳の時のままだ。楽しく会食をしていると携帯がなった。姉からだ。
自宅から、棺桶にいれて斎場に向かうけれど、その前に秀一にも見せてやれ、と伯父がいっている、とのこと。う〜ん、会食も楽しい。こちらも50年に1回、あちらは一生に1回。悩んだ末に、中座して立川の母の家に向かうことにした。
熊谷から立川までの高速を走りながら、不思議な気持ちだった。親の反対を押し切って、立川の家を出る決意をして、当時の義父(今回の喪主)の運転する車で、航空自衛隊熊谷基地へ送ってもらったのが、昭和47年4月のことだった。それ以来、母とは不仲が続いていた。そして、今、その基地から、母の亡骸の待つ家に急いでいる。因縁だろうか…
家に着くと、遺体を前に親族が、集まっていた。葬儀社の案内で、遺体に水を一人一人かけていく。私の番だ。思わず、号泣してしまった。そして、しぼるように叫んだ。「産んでくれてありがとう。ごめんなさい」と。
その後、また一人一人、遺体の顔を拭いたり、旅装束をはかせたり、という儀式があった。母の顔を拭いてあげた。足袋をはかせた。そういえば、母の皮膚に触ったことは、記憶にない。物心ついてから、今日が最初で最後だ。
さよなら
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