2005年05月19日(木) |
母が逝った、らしい… |
朝から忙しい一日だった。夕方の会合が終わって、今日最後の打ち合わせ兼飲み会がある新橋へ向かおうと、京浜急行の駅へ急いでいると、携帯電話のメール着信があった。妻からである。「お母さんが亡くなった。お姉さんに電話して」と。
は?一瞬なんのことか理解出来なかった。妻のお母さんか?いや、妻にはお姉さんはいない。ということは私か…と思い巡らしていると、携帯電話が鳴った。知らない番号だったが、声は10年近く絶縁状態にある姉だった。
姉によると、母は一昨日、突然倒れあっという間に逝ってしまった、という。享年83歳だったそうだ。(母の誕生日も年も知らない)ついては、目立たないように、葬儀に参加せよ、との義父(母の再婚相手)の配慮だから、明日来るようにという。
明日は、議会の後、熊谷基地で、母校である航空自衛隊生徒創立50周年記念式典があり、その後、夕方には栃木県那須塩原で、会社の仕事の打ち合わせが入っていた。が、事態は、生涯に1回のこと。また義父の温情に、出席を約した。
この日誌にも度々書いているが、この母とは些かややこしい関係なのだ。 母は、一回目の結婚をして、姉を産んだ。そして、離婚。私の父と再婚して、私を産んだ。さらに、私が3歳の頃、離婚。現在の夫と再婚し、弟を産んだ。現役時代は、バリバリの女傑女教師をとおし、ツッパリにはあぐらをかいて、くわえタバコで説教をしていたらしい。
私は、3歳から父と暮らし、8歳の時に父が再婚。継母とは仲良く暮らしていた。ところが、父が10歳の時他界。伯父に引き取られ、継母は実家へ。ところが中学1年の時、母が出没して、今度は母の再婚先に養子として入ったのだ。従って、中学2年から高校卒業までの私の苗字は、いぬぶしではない。
ところが、中学になって初めて会った(3歳までは記憶にない)母とは、なんとなくうまくいかない。そこで、中学卒業と同時に独立して高校にいける道として、自衛隊生徒を選び、家を出た。
このあたりから、母とは気まずく、成人してから何度「謝罪」に行っても頑として許してくれなかった。最後にあったのは、数年前の母の日だった。お土産を持っていった私に彼女は「葬式にも来るな」と言った。
こんな関係だから、「母が亡くなった」と連絡があっても、特別の思いが湧かない。オレは非情なのだろうか、と車中で考えた。どうしても涙など出てこないのだ。新橋で会った仲間に、「母が亡くなったんだ」と伝えると、皆心配してくれて、酒飲んでる場合じゃないだろう、と帰るよう促すが、明日行くから、と結局、終電まで新橋で飲んだ。
はたして、明日オレは泣くんだろうか…
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