いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2004年05月09日(日) 母の日に思うこと。二人の母

 今日は、母の日。全国の花やさんは、必死にカーネーションを売り尽くす。幼少の日の私は、この日が大嫌いだった。大体、この日の前になると、保育園でも小学校でも、お母さんの絵を描き、お母さんありがとう、などという手紙を書かされる。これがいやだった。何しろ、我が家には母はいなかったのだから。

 私は、昭和31年国立で生まれた。父は元教師で、エックス線技師。母は、公立中学校の音楽教師。父親の違う姉と4人家族だった。そして、3才のころ、両親は離婚し、姉は母と、私は父と暮らし始めた。

 サラリーマンの父は、風呂のない都営住宅に住み、必死で父役と母役兼務で私を育ててくれた。しかし、残業などあって、大変だったと思う。小学校2年の時『新しい母』が我家に来た。それから、3年間、フツーの家族として楽しく暮らしていたのだが、昭和42年、父は肺癌、肝臓癌、胃癌を併発して他界した。

 他界と前後して、新しい母は実家へ戻り、私は叔父の家に引き取られていった。叔父は東大出の上場企業重役。一部屋を頂き、中学1年生まで3年間お世話になった。中学2年になろうとする時、産みの母から連絡があり、母の再婚先に養子として入籍した。母は三度目の結婚で、新しい家には、親父の違う弟がいた。義父も、中学の体育教員だった。

 ここで2年間暮らしたが、突然、母だ、と言われても思春期の男の子には、なかなか受け容れられなかった。中学の成績は、学年のベスト10以下になったことはなかったが、敢えて『就職組』を選択した。といっても、単なる就職では『カッコが悪い』、航空自衛隊生徒という、防衛庁の高校制度を見つけて、勝手に受け、勝手に入ってしまった。

 そして、この学校の三年生の時、母親に『養子縁組解消届』を突きつけ、離縁してしまった。さらに、この時『今度、会う時は、アンタの葬式の時だ』と、捨てゼリフまで残してしまったのだ。これは、今考えても、申し訳ない、と反省している。

 さて、その後、40歳になった頃、過去の詫びに、母のもとを訪れ、土下座をした、が、母は頑なだった。それから、数年間、年賀状、書中見舞などを書き、毎年、母の日には『近くまで来た』と偽って、菓子などを届けたが、母の態度は変わらなかった。『何しに来たのか』と。さらには、送った年賀状などは、『音信不要』の但し書きがついて返送されてきた。

 一度は、孫を見せてやろうと、娘を連れて行ったが、逃げられてしまった。(彼女には、孫は私の子供以外いない)

 今日は母の日。今年はどうしようか、と迷ったが、娘を連れて、小学校2年から3年間過ごした義母に会いに、勤務先である神学院に出かけた。途中、カーネーションを買い、娘と届けると義母は、えらく喜んでくれた。

 事情があって、父の死後、私と暮らせなかった彼女は、そのことを懺悔して、神学院に奉職している。すでに80歳に近いと思うが、独身を貫いて、私たちと会うのを、心待ちにしてくれている。久しぶりに会う私の娘には、おこずかいまで頂いてしまった。死んだ後、お墓は、どこに入ろうかと困っている、とポツリと淋しそうに言う。彼女には言わなかったが、私が7年月賦で買った、父親のお墓に一緒に入ってもらおうと思っている。

 今年も、実の母の家には行かなかった。母は、三回結婚をし、三人の子供をもうけ、二人の孫(いずれも私の子供)がいる。東京の郊外に、100坪を超える土地に、大きな家も建てた。はたして、それが幸せなのだろうか‥

 私が、若気の至りで『葬式まで会わない』と言ったことが、相当、頭にきているのだろうが、もう80歳を超える高齢。人は、そんなに長い間、肉親に憎しみを抱けるのものなのか‥

 


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