いぬぶし秀一の激辛活動日誌

2004年03月24日(水) 教育は『強制』と『矯正』でいいじゃないか

 世の中、最近おかしな権利意識が蔓延している。特に、子供については、まったく筋違いの議論がされているのは、残念でならない。お隣り、川崎市では、公立学校の性教育の副読本に、アブノーマルセックスを奨励する記述のあるものを作成していた。さしずめ、フェミニストの輩は、児童生徒の『自己決定権』だの『知る権利』だの、と言うのだろう。

 松戸市の保育園では、父兄の参観希望に『見てよいかどうかは、子供たちに聞いてください。権利ですから』と答えた、という。さらには、この保育園は、給食を食べる食べないも『子供の権利』だというのだから、あきれてしまう。こんなことを真顔で話す保育士がいること自体、恐ろしい。

 さて、昨日の本会議最終日に、ある議員が予算討論中、原稿にはない中学校の卒業式の話をされた。曰く『3年間不登校だった生徒が、卒業式だけ出てきて、みな感動した』『悪かったこどもたちが文集で、なぜ先生が向き合ってくれなかったのか、と書いていた』と。

 予算委員会で、『今の中学校はもはや、教育の場ではない。学校を正せ』と切実に訴えた若手議員に対して向けたメッセージであると誰もが思った。3年間不登校で、卒業式にだけくることが、はたして『感動』することだろうか。卒業させることも問題ではないのか。彼(彼女)の人生に「甘え」という「生き方」をインプットすることになりはしないだろうか。

 ガラスを割ったり、喫煙をしたり、授業を妨害した生徒が『先生が向かい合ってくれなかった』と?甘えるのもいい加減にしろ!と言いたい。『権利!権利!』の大合唱の結果、学校に行かない権利、授業を受けない権利、どんな脱法行為をしても警察へ通報されない権利(?)など、やりたい放題になってしまたのだはないだろうか。

 あなたは、あなたらしく、と語るのは、他人の権利、すなわち平穏に授業を受ける権利を守る『義務』を果たしてからだ。経済的にも社会的にも自立した『義務』を果たせない者に『権利』はない。(勿論、人としての基本的人権はあるが‥)

 教育が『共育』などとの美辞麗句のもと、その力を失いつつある今こそ、『強制』でも『矯正』でもいいから、公教育を正さねばならない。

 働かない教員と、働けない教員を全員異動させた、勇気ある学校長のいる卒業式、『国歌』を児童全員で歌う姿があった。あたりまえのことを、あたりまえにやる学校、きっといい子供が育ったろう。

 この学校長の大田区外転勤が悔やまれる。


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