パラダイムチェンジ

2006年07月09日(日) 爆笑問題×東大 〜東京大学の教養〜

昨日、たまたまTVをつけてチャンネルを回していたら、NHK教育テレビ
で、爆笑問題が東大教養学部に乗り込んで、東大生と先生相手に「教養
とは何か」というのをやっているのがとても面白かった。

人は、自分の立場を離れてはなかなか発言できないと思うんだけど、
東大生と教授が、その立場から離れられなかったのに対して、爆笑問題
の太田光は、なんというかお笑い芸能人としてではなく、人間太田光と
して、発言しているように感じられて格好よかったのである。

私は途中から見たので、最初のほうは見てなかったんだけど、
東大の教授が、「教養っていうのは、感動体験なんだ」と言ったときに
太田光が、「でもね、先生、それを授業でやろうっていうのは、大変
だと思いますよ。感動を押し付けちゃったらそんなの感動でも何でも
ない訳だし」
と言ってたのが、印象的だった。
細かなニュアンスは違うかもしれないけれど。

そうなんだよね、人間、何かに感動するかどうかって、多分「お勉強」で
は難しいような気がするのである。
で、出てきた東大生の人たちの印象って、どこか「お勉強」としての教養
って感じがしちゃうというか。

太田光が言っていたことで印象に残ったフレーズがあと2つある。
一つは、「東大生の人たちには、東大の授業ですら、全てを疑うという
感覚を持ってほしい」ということと、
もう一つは、ただ単に全てを疑えばいいという訳でもなく、「たとえ
どんなに高尚な素晴らしい事を考え出したと思ったからって、それを
周囲の人にわかる様な言葉にできなければ意味がない」というニュアン
スの事を言っていたような気がする。

そしてその例として、太田光は「レオナルドダヴィンチ」と「ピカソ」を
挙げる。
いわく、レオナルドダヴィンチとか、ピカソがすごいって言うのは、
彼らの業績を、何百年後の人間でさえ、この作品はすごい、といって
ちゃんと見るように残っていることだと。

そして、なぜそれでは彼らの業績が今でも参照されるのかといえば、
彼らの表現していることなら、たとえそれが幼稚園児の落書きの様で
あったとしても、彼らなら何かあるに違いない、と周囲の人や現代の
人が作品に耳を傾けるからだと。

それはつまり、彼らにはメディアとしての力があるということであり、
逆に言えば、現代、どんなにすばらしい業績を残していたとしても、
それを周囲の人に伝えるだけのメディア力がなければ、それは単なる
独りよがりか、もしくは象牙の塔の中だけの出来事であって、世の中に
なんら影響を及ぼさない。だから教養というものは、そういう高尚な
立場から日常の世界に持ってくる必要があるんじゃないかと。

でも、それは東大や大学の教養に限らず、全てのことに当てはまる気が
するんだよね。

個人的に、教養っていうのは、神棚に飾って有難がるものではなくて、
いかに自分が物事を考えるときのものさしや、参考にできるか、って
いうことのような気がするのだ。
それがなければ、それは単なる教養という名の、トリビアルな豆知識
とか、うんちくにしかならない訳で。

またそのためには、ただインプットするだけでなく、自分なりの感覚と
いうか、言葉に翻訳できて初めてその教養が身につくというか、物に
できるような気がする。

もちろん全ての教養が簡単に飲み込めるわけではなく。
ただ、そういう歯ごたえがあり、消化しにくいものも、ペッとすぐに
捨ててしまうのではなくて、ある日それがおお、わかったという日が
来るまで保留しておく忍耐力のあるなし、みたいな物も必要だと思う
し。

そうやってお勉強における感動体験って初めて生まれるんじゃないの
かな。
つまり、何かを疑い、そして異物を飲み込んだり、消化できる様に
なるって事は、以前の自分とは変わるって事だと思うのだ。

で、自分が変わるって体験のない教養は、単なる「お勉強」やうんちく
なんじゃないのかな、なんて思うのである。

ちなみにこの番組、7月15日(土)深夜に、再放送の予定もあるらしい
ので、興味のある方は是非どうぞ。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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