パラダイムチェンジ

2004年07月15日(木) 憎まれっ子は世にはばかる

私の好きな作家であり、スポーツ(他)ライターの 玉木正之のサイト
「あのお方」に関するこんなコラムがのっかっていて、面白かった。
今回のプロ野球再編に限らず、彼の発言はいつも過激で、そこら辺が
好きなのだ。

ちなみにこの文章は、本心も含まれているとは思うが、玉木氏一流の
冗談だと思う。

私のこのサイトでも、最近ぐぐって来る人のキーワードには「ナベツネ」
「陰謀」なんてのが含まれていたり、やっぱりナベツネさんは憎まれこそ
すれ、あまり人には好かれないらしい。

ならば、とそこは天邪鬼な性格で、今度はナベツネをほめ称える話を
書いてみよう・・・・・・と思ったが無理だった(爆)
個人的には、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の境地に近いらしい。

なので、ここは目先を変えてみよう。
どうして憎まれっ子は世にはばかれるのだろうか。

ナベツネといい、某宗教界の某さんといい、どうしてああいう権力志向
に見える人たちは、みんな長生きで、好き勝手のさばっているように
見えるのか。

権力の頂点に立つことがそんなに長生きの秘訣になるのか、それとも
自然選択説ではないけれど、元々権力志向の強い集団の中で、健康に
左右されず、スキャンダルにも足を引っ張られずに失脚しなかった人
が淘汰されなかった結果、あそこまで厚顔で自己中心的なふるまいを
してるように見える人が生き残ってしまうのか。

まあ、でもあそこまで自己中心的になっちゃうと、仮に引退して老人
ホームなんかに入った日には、嫌われて誰にも相手にされないんだろう
しなあ。
あ、だからこそ引退せずに権力の座にしがみついているのか?

そういえば、内田樹の著書「寝ながら学べる構造主義」の中にこんな
くだりがあったことを思い出した。


人々が権力者を恐れるのは、彼が「権力を持っているから」ではあり
ません。そうではなく、「権力をどのような基準で行使するのか予測
できないから」なのです。廷臣のうち誰が次に寵を失って死刑になる
か、それが誰にも予測できないときに権力者は真に畏怖されます。

これを「権力を持つものはどのような理不尽でも許される」という
ふうに合理的に説明しようとすると、話が見えなくなります。私たちは
ほとんどの場合、原因と結果を取り違えるからです(これはニーチェの
ことばです)。正しくは、「理不尽な決定を下すものに人は畏れを抱
く」のです。

(考えてみれば当然です。どれほどの権力を持っていようと、権力の
行使の仕方が合理的で明快なルールに則っていれば、その人は決して
「暴君」とは呼ばれません。現代アメリカの大統領はおそらく歴史上
最大の権力者ですが、「合理的で明快なルール」に則って権力を行使
することを義務づけられているので、誰も彼を畏れません)

逆に、私たちは他人に権力的な影響力を行使しようとするとき、必ず
「理不尽」になります。(例えば、家庭では成員中で「もっとも理不尽
にふるまうもの」がその家の権力者になります。非力な子どもだって、
おとなしい妻だって、稼ぎのない亭主だって、理不尽でありさえすれ
ば、たちまち他の家族から恐怖のまなざしでみつめられ、好き放題さ
せてもらえます)

そんなばかばかしい支配戦略が可能なのは、私たちの心が、根拠のない
差別が自分に加えられたときには、その実行者を「抗うことのできない
強権の保持者」であると思い込むように構造化されているからです。


そう考えると、ナベツネさんの場合は、その権力の行使の基準が、
予測できないことはないけれど、決して私たちから見ると「合理的」
とは言いがたい、思いつきや冗談のような発言(たとえば以前スト権
ちらつかせた古田に対して、「殺されるぞ」と発言したり)をして、
どんどん強引に事を進めてしまうように見える、あたりが「理不尽」
なので「暴君」扱いされてしまうのかもしれない。

まあ、でも個人的にはあのバイタリティや、上昇志向、権力志向と
いったものの、爪の垢くらい煎じてのんだほうがいいのかも。

あ、一つはいいところを見つけられたか?


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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