2004年06月19日(土) |
「ただ解釈だけが存在する」 |
「真実は存在しない。ただ解釈だけが存在する」という言葉は、鴻上 尚史の戯曲の中に度々出てくる。原典がなんなのかはしらないけれど、 最近この言葉がよく、自分の意識の上に浮かんでくる。
例えば、小学生児童の殺害事件で、加害者児童の掲示板のログや、イラ ストや犯行以前の行動など、様々な「事実」が報道されている。
また、窪塚洋介がマンションから飛び降りたアクシデントについても 今までの言動や直前の様子など、様々な「事実」が同じく報道され続 けている。
でも、と思う。じゃあ、膨大な事実を積みあげた先に、果たして本当に 真実は現れてくるんだろうか。
そこにあるのはただの解釈で、こうだったらいいな、こうに違いない、 という一種の物語なんじゃないのかな。 マスコミは、事件に対する世間の関心の高さを楯に膨大な事実を中立の 立場で報道していると胸を張る。
でも、本当にそうなのかな? たとえ本当に中立な立場で事実を積みあげていったとしても、それだけ では人々は落ち着かないし、納得しないんじゃないかな、と思うのだ。
つまり、そこで何らかの立場に立ってコメントをしないと、(私を含 めて)気がすまないんじゃないかな、って気がするのだ。
そしてマスコミを含めて人々がコメントをしている時、自分が無意識の うちにどの立場に立ってコメントしているのか、という事が見過ごされ ていると思うのだ。
そして、私が最近の様々なコメントを見て感じるのは、「だからあの人 は特別で、だから私(たち)は大丈夫なんだ」という無意識の選別意識 に立ったコメントが多いような気がするのだ。
つまり、同級生を殺害した児童は、こういう行動をしたからこそ特別で だからあんな事をしたのだ、とか、窪塚洋介は日頃からおかしな言動を していたから特別で、だから飛び降りても不思議ではないんだ、という 形で、私が相手とは違う、という安心の理由を必死になって探している ような気がするのだ。
でも、本当にそうなんだろうか?
むしろ加害者児童の行動が、私たちとあまり変わらない行動であった からこそ、何が原因でそうなったのか、もっとわからなくなり自分の 子供に対しても不安を感じているんじゃないのかな、とも思うのだ。
そして、誰かを特別視すれば済む、というのは、自分が常に大多数に いると思うからこそ安心できるんだと思うけれど、今の時代は何が その大多数でいることの根拠になるのかが、曖昧でわからないからこそ 果たして自分が大多数に含まれているのかどうかが気になって、結果 自分がなくなって苦しんでいる人も沢山いるんじゃないかな、という 気がするのだ。
マスコミは、少なくとも膨大な事実を積みあげれば、必ず真実に結び つく、という幻想をまずは捨ててみたらどうだろう? そうすれば、事実を報道するためには何をしても許される、という報道 被害は、今よりは減るんじゃないかな、と思うんだけど。
そしてもう一方で、膨大な事実を積みあげることは、一人の人が死んだ という事実の重みを、相対的に軽くしてしまうんじゃないのかな。 それもまた、被害者家族にとってはつらい事なんじゃないのかな、と 思うのだ。
参考リンク 東京新聞 6月17日特報欄「被害者抱えたメディア側の情報開示」
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