日曜日、TVをつけっ放しにしていたら、TOKIOの山口のサーフィン番組 をやっていたので、思わず見入ってしまった。 昨年夏に映画「ブルークラッシュ」を見て以来、サーフィンって楽し そうかも、なんて思ったからである。
ま、自分の趣味をTV番組化することで、バリ島にまで行ける芸能人は いいなあ、なんてやっかみも少しはあるが、ただの旅番組を流されて、 旅気分に浸りなさい、なんて言われるよりはこっちの方が全然いい。
で、その番組を見てて、芸能人がサーフィンにはまる理由が何となく わかったような気がしたのである。
多分、サーフィンをしている時って、自分が芸能人であるとか、何者か なんて事を全く意識せずに没頭できるからなんじゃないかな、なんて 思ったのである。
もちろん、周囲のサーフィン仲間も、お、芸能人の○○が来ているよ、 なんて多少は意識するかもしれないが、そんな事よりは、目の前の波に 乗れるか乗れないかが、最大の関心事だろう。
そして、波に乗れた奴がどんな奴であろうと格好いい、という実力主義 の世界なんだろうし、そういう世界で私は女優よ、みたいなお姫様扱い を望んだとしても、波に乗れなきゃただのヘタレ扱いなんだろうし。
そして周囲から格好いい、と評価される事が全てなのではなく、むしろ 自分が長く波に乗れたかどうかが、勝負になるのかもしれない。 だって、長く乗れれば乗れるほど、自分自身が気持ちいいんだろうし。
そして波に乗る時には、おそらく、何かを意識してコントロールしよう とすれば、もう既にタイミングを外してしまいので、文字通り「無我の 境地」で自然と無意識の内に身体が動き出せないと、うまく波には乗れ ないんじゃないのかな。
そしてその「無我の境地」になった時って、自分がゼロになった瞬間で あり、大袈裟に言えば「自然との一体感」が味わえているんじゃないか と思うんだよね。
おそらく、同じような快感は、スキーで難しい斜面を乗りこなしている 人にもあるんだろうけど、サーフィンの場合特別なのは、「一つとして 同じ波が来ない」所にもあるのかもしれない。つまりその時、その時の 波に身体が反応する必要があるからこそ、奥が深いのかもしれない。
ま、以上は陸サーファーですらない素人の勝手な想像なわけだが、 果たしてこの仮説が正しいのかどうかを考えてみる上でも、やっぱり サーフィンはそのうち一度でいいからやってみたいものの一つである。 おそらく最初は、海水のしょっぱさにさえ、へこむと思うが。
何も伝説のビッグウェイブに乗りたいとは全く思わないが、余裕ができ たらロングボード担いでいる親父にはなってみたいなあ、と思う。
でも、サーフィンに限らず、自分自身の肩書きとか意味にこだわらない 「ゼロになる瞬間」って、人生をより楽しく生きていく上では貴重な 時間なんだろうな、と思うんだよね。
今までの自分の人生の中で、何がその「ゼロになる瞬間」に一番近かっ たかというと、やっぱり踊っている瞬間かなあ、なんて気もする。 何も考えず、ただ、リズムとビートの虜になっている時、私は何者でも ない、ただの自分になっているのかもしれない。 後は無我夢中で泳いでいる時もそうかなあ。
やっぱりそろそろ、身体の方が動きたくてウズウズしてきている季節 なのかもしれない。
なんて事を書きながら、たまたま宮台真司のブログをのぞいてみたら、 宮台センセイもサーフィンについて書いているのを見つけて、その意外 性と偶然性にビックリした。これも一つの共時性なのかもしれない(大 袈裟である)。
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