ちょっと前(今もか?)自分探しの旅、というのが流行った。 自分探しの旅、とは結局、自分は他人と違う、特別な人間である、 という事の意味づけをしたり、その根拠を求める旅なのかもしれない。
でもね、自分が特別であり、人とは違うんだ、という事はもう一方では 自分が孤独である、という瞬間も味わう事になるわけだ。だって、自分 の考えが、他人(その他大勢)とは違う、特別だ、という事は、同じ 考え方をする人が自体が稀少であるという事をも指すわけで。
逆にもう一方では、自分が特別である、と思いたい人の心の中には、 自分が孤独である事の代償に、孤独であるが故に自分は特別であり、 特別であるが故に自分は何をしても許される、と思う人もいるのかも しれない。
そして、ネオ麦茶、宅間受刑者、そして今回の同級生殺害の加害者には どこかそうした共通したニオイがあるような気がするのだ。 もしかして、彼らの背後にあったのは、自分は孤独であるが故に自分は 特別である、という意味の変換だったんじゃないのかな。
そして、もしかするとその背後には、出る杭は打たれる、皆一列で同じ 事をしなきゃいけないという強迫観念と、孤独はつらい、という恐怖感 があるんじゃないのかな。
みにくいアヒルの子が他者と違っていたが故に仲間はずれにされて しまうような恐怖感に、この国が冒されているような気がするのだ。
あの、イラク人質の自己責任を巡る問題も、北朝鮮拉致被害者家族に 対する非難の声も、そういうなんとなくある強迫観念が起こしている んじゃないのかな。
でもね、だったら自分が特別である/特別じゃないなんて意味づけを まずはやめてみたらいいんじゃないのかな、と思うのである。
自分で自分を特別だ、なんて意識しなくったって、元々人は一人一人 違うわけだし、あの人は特別で変わっている、なんて意味づけをしな ければ、その人をうらやむことも、また排除する論理も生まれては 来ないんじゃないかな、と思うのだ。
そして逆に言えば、現在この国がいかに意味づけや目的意識に冒されて いるか、という事の裏返しなんじゃないかな、と思うのだ。
|