パラダイムチェンジ

2004年05月26日(水) モノからヒトへ

皇太子の発言について、いろいろとマスコミで取りざたされている。
正直、どうでもいいと思うが、思いついた事があるので書いてみる。

それは、結局宮内庁のお役人たちは、皇族を人間として扱ってなかった
って事なんじゃ?という事である。

だって、官僚というか役人にとってみれば、自分の扱う対象が、人間で
あるというより、モノとして扱えれば、その方が全然ラクなんだろう、
と思うのだ。

戦前、天皇は人間ではなく「アラヒトガミ」であるとされていた。
その一方で歴史の教科書の知識でいえば、美濃部達吉の「天皇機関説」
が、実は当時の高級官僚から、警官に至るまで、広く行き渡っていた
ように、「ヒト」ではなく、機関という一つのモノとして捉えていた
のではなかったのか。

大体、天皇陛下自身が、自分の意志で発言しちゃいけないって、教育を
受けていたんでしょ?その事が、太平洋戦争における昭和天皇の苦しみ
だったのかもしれない、というのはおいといて。


でも、これは宮内庁の官僚に限った話ではないのかもしれない。
国民年金制度は、自分達の天下りのための資金であると言い切り、金は
どんどんたまるんだから使っちまえばいい、と機関紙で発言していた
厚生省(当時)の官僚たちも、国民一人一人を、「ヒト」というよりは
集金マシーンという「モノ」として見ているのではないのか?

そしてそれは、税金を浪費している人たちも同様なんじゃないのか?
つまり、一人一人とは言えないまでも、納税者の「顔」を意識したら
早々無駄遣いはできないんじゃないのかな。

そしてそれは、兵士をモノとしてイラクに派遣をしているアメリカ政府
首脳たちも、そしてその派遣先でイラク人をモノとして虐待をしていた
アメリカ人兵士たちも、皆、相手を「ヒト」として扱わず、「モノ」と
して扱っているんじゃないのかな、と思うのである。

でね、皇太子に限らず、今現在、この社会を生きている人たちっていう
のは、自分がモノ扱いされている事に対してのストレスが、非常に高く
なっているんじゃないのかな、と思うのだ。

つまり、私は人間なんだ、と皆、声をあげている気がするのだ。

今、学校が荒れている、と言われている。でも、荒れている原因の一つ
は、学校の先生が生徒をヒトではなくモノとして扱っている事もあるん
じゃないかな、と思うのだ。

もしも先生が、生徒一人一人と本当に腹を割って話して、少なくとも
相手を人間として扱っていれば、荒れることは少なくなるような気が
する。

そう、相手をヒトとして扱うとは、相手も同じ人間である、と認める
事なんだろうと思う。
そして大量生産で飛躍した20世紀に代わる21世紀は、この相手も同じ
人間として扱う、という事が重要になってくるんじゃないのかな。

いや、もちろん、先生にしてもまた高級官僚にしても、生徒一人一人、
国民の一人一人の顔を見て、そして等しく相手をヒトとして扱うという
のは、限界があるのかもしれない。

でも、そうではなく、実際に不可能であっても、できるだけ多くの
「ヒト」の事を考え、勘定に入れられる人のことを、「思いやりのある
人」というんじゃないのかな、と思うのだ。

そして、先生には先生の、官僚には官僚の思いやりのレベルがあると
思うのだ。


P.S.
関係ないが、今朝、仕事前にTVを見ていたら、「トクダネ!」で、
養老孟司が日本人の壁とは?」と聞かれ、「本気」と答えていた。
曰く、「だって、誰も国民年金のことなんて、本気で考えていない
でしょう?」「時々、相手に本気か?と聞きたくなる時がある」

なるほど〜、と思わず考えさせられた。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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