元オウム真理教教祖の麻原こと松本被告に第1審で死刑判決がでた。 以下は、東京新聞に載っていた、麻原被告の弁護団のコメントである。
「判決は検察の主張の上塗りにすぎない。これではなぜ事件が発生し たのかが分からない」
「判決は『オウム王国の野望』というが、その中身がない。松本サリ ン事件などの中心人物だった村井秀夫(元幹部、故人)の関与も薄か ったことにされるなど、事実認定がでたらめだ」
「救済や解脱を望んでいた人間が、なぜ犯行に陥ったのか、すごく大きな疑問が残っている」
弁護団は判決後、麻原被告と接見。「控訴するよ」と念押ししたが、 答えはないままだったという。渡辺団長は「麻原被告と意思疎通する 時間も休む時間もなかった。終わってホッとしている」と語った。
さて、この弁護側の行動に、一般人としての私は様々な疑問が残る。 彼らは、一体、何のために、誰のために弁護をしようとしているのか が、いまいち分からなかったからだ。
いや、だって、結審を遅らせるためかどうなのかは当の麻原被告に しかわからないけれど、本人は裁判で自分の主張をする事を全く 放棄しているのである。
つまり、日本の裁判制度がどうであろうと、私は一切自分が不利に なったとしても、検察側の言うとおりに致します、と判事に判断され たっておかしくはない行動をしている訳でしょ。
いや勿論、国選とはいえ、被告人の弁護人なんだから、被告人の人権 そのほか権利を守るための弁護人なんだろう。
特に世間的にもマスコミ的にも注目されている大きな事件だから、 例えばここで検察側の言い分を全て呑んでしまったとしたら、今後 弁護士側と検察側の力関係や、面子に関わると思ったのかもしれない。
でも、そこに麻原被告本人の意思がどうであるのかは全く読み取る事 が出来ないと思うのだ。 しかも、元々第1審後は、この国選弁護団は辞任することが決まって いたらしい。
うーん、結局自分たちはやれるだけのやったけれど、結果は芳しく なかったですから、その責任は取りますが、その責任は第1審のみに 限定させて下さい、という逃げの姿勢に見えるんだよなあ。 まあ、物言わぬ麻原被告の弁護人を6年以上も続けてきた精神的な 疲労や周囲からの非難は計り知れないものがあるとは思うけれど。
しかも国選弁護人だから、収入が増えるわけでもないし、せめて自分 達の面子のためには控訴しなければやってられない、って感じだった んだろうか。
でももう一つ、この一連の裁判に関して、個人的に疑問に思うのは、 果たして弁護人の一人が言うように、「救済や解脱を望んでいた 人間が、なぜ犯行に陥ったのか、すごく大きな疑問が残っている」 事をこの裁判で明らかにすることが本当に必要なんだろうか? という事である。
これは私の想像の域を出ないが、おそらく一般的な弁護と言うのは、 その事件が起こった物語を読み解く作業であると思う。
すなわち、まず犯行には動機があり、では犯人をその動機に向かわ せた原因、背景は一体何であったのか、そしてそこに情状酌量の余地 はないのか、という事を明らかにすることで、私たちはその事件が 起こった理由を理解する。
例えば、オウム真理教幹部で、医師の林郁夫受刑者の場合は、そんな 風に何故、オウム真理教に入信し、そして犯行に至ったのか、そして そのことを悔いているのかどうか、と言う形で、一般の私たちにも わかる物語として読み解くことが出来たからこそ、結審も早かったの ではないのかな、と思うのだ。
でも、この7年間の裁判の間、麻原彰晃は何も語っては来なかった。 でも、もしも彼が能弁に口を開き、事件に至る動機がつまびらかに されたとしても、それによって、遺族の気持ちが晴らされるとは 限らないかもしれない。 また、彼らを犯行に駆り立てた動機が白日のもとにさらされたと しても、その物語は私たちの社会通念上はとても理解しがたいもの かもしれない。
それは例えば、あの池田小の事件を起こした宅間受刑者にしたって 同様だろう。 もちろん、事件の全容を知ることにより、同じような事件が再び 起こる可能性を未然に防ぐことはできるかもしれない。
でも、そのためには今まで以上の膨大な時間がかかることのように 思うのだ。それを果たして裁判と言う場で行なわなければならない のだろうか。
以前、少女を誘拐、殺害し死体を損壊した宮崎勤に対して、中森明夫や 大塚英志といったオタク系論客の人たちが、彼を犯行に駆り立てた 物が何であったのか、その宮崎勤の物語を一般人にもわかりやすく 読み解こうとしたことがあった。
でも私個人の感想で言えば、宮崎勤が犯行を起こした理由は、その物語が 書かれた本を読んでも、結局は宮崎勤に共感し、理解することはできな かった。
事件の全容を明らかにすることよりは、実際に起きた犯行に関して 本人の自供がなければ周囲の証拠を反証して、その結果、この事件に 関しては、有罪である、もしくは無罪である、という形で、果たして その人が社会通念上、罪があるのかどうかを検証するために裁判制度 というのはあるんじゃないのかな、なんて思うのだ。
もしも弁護団がそういう姿勢で裁判に臨んでいれば、つまりその証拠 の妥当性という観点でこの裁判を戦っていれば、この裁判はもっと 早く結審することができたんじゃないだろうか。
東京新聞・麻原裁判特集
麻原公判が残した教訓
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