2003年07月15日(火) |
ひとの「こころ」は育ちうる |
先週、長崎の幼児殺人事件で、12歳の中学生が容疑者として補導 された。
中学生が逮捕・補導されて以降、マスメディアは予想したような 蜂をつついたような騒ぎになった。
曰く、 どうして12歳の少年が? 成績優秀だった少年のもう一つの顔、心の闇に迫る 社会のゆがみが背景か? 親の責任云々かんぬん
別に一つ一つの報道を細かく見たわけではないけれど、大体こんな 報道が多かったようだ。
で、正直、別に個人的に日記にまで書くほどの関心があった訳ではない んだけれど、鴻池大臣が、「親は引きずり出して打ち首獄門にすべし」 と発言し、その後も何ら悪びれる様子もなかったみたいのなので、 ちょっと日記に書いておく気になったわけだ。
さて、問題の鴻池発言、その発言の是非はとりあえず置いておくとして、 個人的に問題にしたいのは、国政を預かり、青少年育成委員会だかの 委員長をしている人間の、政治的なスタンスの稚拙さだろう。
そんじょそこらの一般人が言うならまだしも、この複雑な問題も多い 現代に、「勧善懲悪」なんていう一元論で、政治的判断をしてもらっちゃ 困る気がすると思うんですけど。
ついでに、政治を勧善懲悪なんていう枠組みで判断していいんだったら、 さすがに打ち首獄門、とまでは言わないけれど、江戸処払いにしてほしい 代議士さんは、いっぱいいると思うんですけど。
さて、当の12歳の少年による、幼児の殺人事件について。
でも、個人的に思うことは、あまり多くはない。 12歳で4歳の幼児を殺した、少年が何を考えて犯行を犯したのか、と いうのは、あまりに自分の想像の範囲を超えていると思うからだ。
そこに性的なサディズムがあったとか、幼児に対する偏愛があった、と 言われても、実感の湧きようがない問題であるし。
ただ、今回の問題、これだけ大きく世間を騒がせているのは、少年が 12歳で、刑事的な罪には問われない、という事が大きいんじゃない のかな?
すなわち、これが14歳以上だったら、もちろん事件の惨たらしさの 問題もあり、やはりセンセーショナルな話題にはなったと思うけれど、 とりあえず立件されて、医療少年院なり、少年院に送致されるという、 一つの「物語の枠」に当てはまれば、人びとは少なくともほっとした んじゃないのかな。
でも、じゃあ、その少年が医療少年院なり、少年法改正で刑事的に断罪 されたら、それで全てが済むんだろうか。 問題はもっと、別のところにあると思うのだ。
私がこの問題に対して考えることは一つ、その少年の心の問題である。 それは何も、加害者も少年だから、その心を保護しなければならない、 と言っている訳ではない。
彼が犯行を犯した理由。それは、これからの専門家の診断や、 様々な所からもしかすると明らかになっていくかもしれない。 でも、それより大事なのは、「彼のこころをどのように育てていくか」、 だと思うのだ。
今回の犯行を犯した背景の一つには、彼が自分の「こころ」を育てられ なかった事が大きいと思う。
こころは、ほっておいて、勝手に育つわけではない。 私や、そしてこれを読んでいるあなたの「こころ」が今のようになり、 そして大きな犯罪を犯さずに済んでいるのは、自分や、そして周囲の人の いい意味でも悪い意味でも刺激を受けたおかげであると思う。
それは、ただ単に両親のせいだけではない。友達や、親友や、そして 周囲の善意のある人や時として悪意のある人たちに囲まれた結果として、 今の「こころ」があると思うのだ。
つまり、個人的には「こころ」とは、まるで花を大事に育てるように、 水をやり、肥料をやるだけでなく、太陽や風にさらされて、育つものだと 思うのだ。
でも、じゃあ今回の彼のように、あまり育ってこなかった「こころ」は、 もう育つことはないんだろうか?
個人的には、そんなことはないと思う。 こころは、いつでも育てることができると思うのだ。 本人が、自分の「こころ」を育てる気になるのなら。
もちろん、今回の彼が行なった事件は、許されるべき問題ではない。 彼は今後も一生、罪を背負っていかなければならないし、鴻池大臣が 言うように、市中引き回しにしなくたって、この少年の両親は、今後も ずーっと、罪の意識を背負って生きていかなければならないと思う。
また、被害者の両親は、今、少年がいくら謝罪をしたとしても、決して 許すことはないかもしれない。 もしも、自分が同じ立場だったとしたら、その少年を同じ屋上から何遍 突き落としたって、気が済むことはないかもしれない。
でも残念ながら?その思いが許されるのは、被害者の両親だけだろう。 私たちが、いかに気持ちを斟酌したって、わかった気になって、同情 することはいくらでもできるけど、両親の本当の無念さはわからない。 そのための補償は、いくらあったとしても足りないだろう。
だから、それより大切なのは、今回事件を起こした少年と両親が、果た して本当に自分の罪の重さを背負って、それでも生きていけるだけの 「こころ」の強さを、育てることができるかが問題なんだと思うのだ。
ただし、こころは簡単には育たない。 例えば、医療少年院や、児童養護施設に彼を入所させて、こころの専門家 に預けたからといって、勝手に彼のこころが育つわけではない。
彼自身が、彼のこころを育てる努力をしなければ、こころは育つことは ないし、それは彼の両親もそうだろう。
そして、仮にそれでこころが育ったとしても、周囲が遠巻きにして、 近づこうとしない限り、彼のこころは育つことはなく、途中で萎れて しまうかもしれない。
その結果、もしもまた犯罪に手を染めることにでもなれば、「あの少年が またやった」とマスコミは勝手な烙印をまた押すことだろう。
私は心の専門家ではないので、人の「こころ」を育てることがどれだけ 大変なのか、本当の所はわからない。 でも、どんなに大変な状況であっても、ひとの「こころ」は育ちうると 思うのだ。 本人が、こころを育てることの大切さに気付くのであれば。
せめて生涯、自分の罪の重さを背負い続けられる、そんな「こころ」を あの少年には育てて欲しいと思う。 せめて、あの命を奪った、幼児のためにも。
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