2003年06月04日(水) |
ナイーブな人(17)他者とつきあうには |
という事で前回の続き。 それでは、私たちはどんな風に他者とつきあっていけばいいんだろうか。
そのヒントになるかもしれない話が、河合隼雄と吉本ばななの対談本、 「なるほどの対話」の中にある。
吉本 若い人たちは、こんな若いのによくそんなことわかるなというよ うな、深い、生きる、死ぬなどという話が多いんです。みんな真 面目だと思います。もう、手紙なんて感動しますよ。こんなに若 いのに人生に対する深い関心を「よくぞ」って。しかも文章もう まいし、絵もうまい。みんな絵が入っているんです。実感として、 その人たちの感性の豊かさというか、平和ななかで感性を磨いて きた子どもたちの力というか、そういうものをすごく感じます。
河合 「感性」を磨くということは教育の世界でもよく言われます。そ れは、磨くべきであるし、磨けるものであると思っているんです ね。ところが面白いのは、「感性」という言葉をマイナスの意味 に使う人がいるんですよ。「いまどきの若者は感性だけで動いて いる」と。「好き!嫌い!」で動いているからダメだ、とね。そ こでは、「論理的、理性的に思考できない」という意味で使われ ているわけです。
吉本 でも、大勢でいるとあまりのうるささに、「感性だけで動くな」 って思います(笑)。彼らがいまいちばんかわいそうだなと思うの は、若いときはそういう感性やエネルギーがいっぱいあるけれど、 それをどうしたらいいのかがわからないまま、だんだん大人にな ってエネルギーが減っていって、他のものが増えてくる。その過 程で若い人は別の世代、たとえばおじいちゃんやおばあちゃんや 近所のおばちゃんや、年上の他人でもなんでも、持っているもの を交換するといいと思うんです。エネルギーを若い人が与えて、 上の世代が知恵を与えてって。でもいまはお互いに交換できる場 っていうのが日本にはあんまりない。それが気の毒で。
河合 本当は、意見交換しないと面白くないわけですよ。いまの若い人 たちは、いったいどのように誰とつながるのかが、すごく難しい 時代なんじゃないですか。
吉本 若い人たちだけで固まっていますよね。そうなるとたぶん広がっ ていかないんだろうなと思う。
河合 せっかくの鋭い感性が、ものすごく形になりにくいんですよ、い まの時代は。
吉本 そうなんです。それで、誰も「こうしなさい」って言ってあげら れない。大人でさえも困ってますから、いま。核家族だし。私な ど、深刻さにかけては右に出るものはいないというぐらい深刻な はずなのに、いまの若い人はもっと深刻ですね、実際に話をする と。将来を憂えているし、不安もすごく持っている。「そんなに 深刻じゃダメだよ」というぐらい素直だし、「そんなに深刻でど うする」というぐらい深刻で。でも、これがいまの時代。本当に 深刻な時代なんだなと思う。
河合 大人が若い者の、いま言ったような実状をもっと知るべきでしょ うね。大人はちょっと安閑として、「我々は一生懸命やってきた けど、いまの若い人たちはいい加減にやっている」と単純に思っ ているわけでしょ。実際はそうじゃない。
吉本 彼らが混乱しているのは社会のせいで、子どもたちのせいじゃな いと思います。もし私が、いまの時代に中学生、高校生だったら、 ああいうふうに考えるのは無理もないって、なんとなく気持ちが わかるので。すごい髪の毛にしたり、こんな厚いサンダルを履い たりでもしないとやってられないよって。
こんな風に、世代を超えた対話というのは、一つの外側にいる他者との 対話だと思うのだ。 なんでそんな事を思うかといえば、私のはりきゅう師という職業上、 かなり上の世代の人たちと接することが多いから。
これは一般論だけど、私たちはお年寄りという存在を、もう時代に取り 残された、介護すべき過去の人、という目で見がちである。
でもね、彼らは決して「おじいちゃん」「おばあちゃん」なんて曖昧な 存在ではなくて、ちゃんと個性があり、しかもその個性は、年輪を重ねた 分、際立っていると思うのだ。
だから例えば病院で、医療スタッフが、患者さんであるお年寄りに対して 「おじいちゃん」「おばあちゃん」と声をかけるよりは、ちゃんと「○○ さん」と、名前を呼んであげた方が、回復が早かったりするかもしれない。
それは、彼らに対して「おじいちゃん」と呼んでしまっている限り、 彼らは私たちの意識の外側の人間であり、彼らにとっては、自分の個性 を否定されたような気がするからかもしれない。
そうではなく、ちゃんと名前で呼んであげることで、初めてコミュニケーションの下地が出来上がるような気がするのだ。 そしてそれは、もしかすると今の子供たちも同様かもしれない。
それに、彼らとの対話自体が結構、面白いのである。 だって、私がまだ経験していないことを沢山経験してきた人たちで あるわけだから。
そして、それは世代を超えた対話に限らない。 例えば、性別を超えた対話でも、それは変わらないと思う。
男女の性別を超えた対話、というとすぐに恋愛が思いつくと思うけど、 恋愛に限らず、例えば友達づきあいでもそれは変わらないと思うのだ。
私には女友達、といっても性的なニュアンスを含まない友達が沢山いる。 果たして、「男女の間に友情は成立するか」という永遠のテーマは置いといて、個人的な異性の友達を作るコツは、「ナイーブさを捨てて」つきあう事だと思う。
なぜなら、男女って、必ずしも同じ世界に属しているわけではなく、お互い外部の世界に属している人間であると思うからである。 そして、例えば恋人同士だったら、お互いに甘えあい、依存しあう関係 でも成立するけれど、異性の友達という関係では、そのお互いの違いを 乗り越えなければ、成立しにくいのかもしれない。
逆に言えば、自分の外部の世界にいる人間とつきあう、という事を何も 難しく考える必要はなく、異性と対話してみれば、自然と外の世界と つきあうことになると思うのだ。
そこで大切になるのは、「自分の属する世界の言葉」が相手にそのまま 通用するとは思わないこと。 それはすなわち、 お互いに分かりあえないというのが前提にある、と言う事だと思うのだ。
でも、そのことについて何も悲観的にならなくてもいいと思う。
だって、逆に言えば、これから対話をしていくことでお互いの共通認識が 深まるかもしれない、という事を指すのだから。
ついでに言えば、 自分の属する世界でのみ通用する言葉以外の言葉を話すということは、 自分の属している世界が拡がっていく、という事でもあると思うのだ。
そしてそれは例えば、男女間に限らず、 外国人に対しても通用するし、そして例えばジェンダーを超えた人、 ゲイの人たちに対しても同じなんじゃないだろうか。
そう考えると、女性でオカマバーに行って癒される気になるのは、SEX を意識せずに、自分の外側にいる人間と気楽に話せるから、なのかもしれ ない。
そして、それは恋愛に関しても同様であると思う。
これはあくまで個人的な意見だけれど、 恋愛ほど、自分のナイーブさがプライオリティではなく、足かせになる 分野はない、と思うのだ。
だって、ナイーブなモテモテの男ってなんか嫌じゃないっすか? 内面ではなく、ルックスやら仕事やら収入やらで勝負してそうで。 <やっかみ入ってますけど。
あ、でもそのナイーブな一面が、女の人の母性本能を刺激したりするの かもしれない。 稀だろうけど、二人でいるときだけは、幼稚言葉になっちゃったりとか。 そういうのが好きな女性もいるだろうし。 いや個人的には全然憧れないし、うらやましくもなんともないんだけど。
そういう極端な例?ではなくても、 自分が内心モテたいと思っているのに、何の努力もしない人とか。 何も努力していなくてもあなたがいいの、と言われることを一生夢見て そうな人たちとか。
そういう人たちに限って、相手への想像力が欠けてしまっているような 気がしてしまうのだ。
恋愛に絡めた話では、ダビンチ'03年5月号で、藤田宜永が、こんなことを 言っている。
「オレ、男だから男の情けなさいっぱい見てるの。女性に申し訳ないと いうくらい、いまヒドイね」
藤田宜永さんは、育ちの良さや海外暮らしの経験もあって、根っから のフェミニスト。だから現代の恋愛事情を俯瞰する視線も女性に同情的 で、おのずと"男の子が頑張んなきゃ"という方向になる。ネックは"傷つきたくない"という気持ちの裏返しである、自尊心の高さだと言う。それ は現代の男女なら、みんな抱えるアキレス腱だという気もするが―。
「やっぱり女性は普通、待ちの姿勢でしょう。だから男の子がアタック しないと恋は始まらない。でも1、2回蹴られると、諦めるのね。自尊 心は高いのに、気が弱い」 欲しいものをゲットしようという欲望が衰えているのかなぁ、と首を ひねる。(略)
「恋愛が流行らないのは、みんないま、保守的だからだと思う。情報を 集めすぎて、臆病になっている。もっと動物になって直感を信じたほう がいいよ。"こういう男(や女)はやめましょう"みたいな先回りする情 報を仕入れると、カンって目減りするんだ。永遠の恋なんて誰も信じて ない。でも"ない"と冷めているのも、かしこ過ぎる。胸が高鳴ったとき、 思い込みでどこまでバカになれるか。それが惚れる力であり、ひいては 生きる力だと思うな」
と、いうことで次回ようやく最終回。
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