パラダイムチェンジ

2003年06月03日(火) ナイーブな人(16)

さて、長かったナイーブを巡る旅も、いよいよ終わりに近づいてきたと
思う。
だけど終わりに近づいてもなお、私の考えは、「では、どうしたらいい
のか」という、明確な答えを出すことはできないでいる。

でも、ありきたりな言い方をしてしまえば、こうした方がいいんだ、
なんて明確な答えは、ないのかもしれない。

それこそ、百年前、夏目漱石が「草枕」の冒頭で「智に働けば角が立つ
情に棹差せば流される」と語ったように「とかく人の世は難しい」もの
だとも思うから。


今までの話の流れで言えば、「ナイーブ」や「マッチョ」であることよりは、
「したたか」であることの方がいいんじゃないか、とも思うが、
では、「したたか」な人であれば、幸せなのか、と言われると何とも
いえないし。

前回の終わりに書いたように「騙す人」「騙される人」ではない、「騙されない人」を選択すればいいのか、と言われるとやはり、そうだと言い切る確信は無い。
なぜなら「騙されまい」として、身を固くして、頑なになることが、
必ずしもいいことだとも思わないからである。


結局今までの話を振り返ってみて、私が一番違和感を感じていたのは、
もしかすると、ナイーブな人やマッチョな人の、「無知ゆえの頑なさ」
だと、いえるかもしれない。

「無知ゆえの頑なさ」は、「頑固さ」とはちょっと違うかもしれない。
要は、「自分の外側にあるものに対しての、想像力の欠如」だといえる
ような気がするのだ。

それは、必ずしもある特定の知識が豊富であればいい、という事では
無い。
それは例えば、受験の勝ち組である、東大出身のエリートさんたちが、
全て人間として魅力があるのか、という事でもあるかもしれない。
もちろん、人間的に魅力的な東大出身者も沢山いると思うけど。

そうではなく、いかにこの複雑な現代を生き抜いていくための「知恵」を
持っているか、という事の方が重要なんじゃないかな、と思うのだ。

そしてそう思うとき、時として「無知ゆえの頑迷さ」におちいりやすい、ナイーブな人に一番足りないのは、「自分の外側にあるものに対しての、想像力」であるような気がするのだ。


それでは、一体、どうすればいいんだろうか。


そのためには、結局、外の世界と触れ合う、という事が大切なんじゃない
だろうか。

自分の属する内側の世界では、もしもそれが許されるのであれば、ナイーブなまま、で過ごしても全然、構わない。
むしろ、自分が無防備にナイーブな一面を出せる場所は、それがどこであれ、あなたにとってはかけがえのない内側だろうと思うのだ。

でも、それとは別に、外の世界に向ける目を持つことは、その人の「異物を取り込む力」を活性化させると思うのだ。


本当は、ここに引用するつもりは無かったんだけど、鴻上尚史は、現在発売中のSPA!6/11号の「ドンキホーテのピアス」の中でこう書いている。


 そして、こういう言い方は道徳的に響く危険があって嫌なんですが、
人間が成長し、成熟するのは、結局、「どれくらい"他者"とつきあった
か?」しかないのです。

 それは、「面白いのは」と言い換えてもいいです。あなたが本当に面
白いと感じるのは、「"他者"とつきあった時」だけなのです。

 "他人"の友達や恋人は、やがて、飽きます。それは一緒にいる切実な
理由がないからです。あなたを本当に刺激するのは"他者"だけなのです。



それでは、一体、私たちはどのように他者とつきあえばいいんだろうか?
と、いうことで次回。


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harry [MAIL] [HOMEPAGE]

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