2003年06月02日(月) |
ナイーブな人(15)したたかさ |
いきなりだが、今週発売されたばかりのの雑誌SPA! 6/10号の、鴻上尚史が連載中のエッセイ「ドンキホーテのピアス」で、ネット自殺者について触れている内容が面白い。
偶然、この連載?と内容がかぶっているように思う部分があるのだ。 現在発売中の雑誌という事もあり、大きな引用は避けるけれど、このエッセイの中で鴻上尚史は、「家庭が息が詰まる場所になったのは、『家庭だけが異文化という場所』になったからです」と指摘している。
そしてその上で、「他者」と「他人」の違いについて触れ、 「そして、分かりあってないんだけど、あなたが分かりあいたいと熱望したら、それは"他人"ではなく、"他者"と呼ばれる存在になります。
"他者"は、『理解したいんだけど、理解できない』と同時に『理解したくないんだけど、理解しないといけない』存在のことです」と定義づけて いるんだけど、この定義づけが、なんか納得できるというか。
その上で鴻上尚史はある一つの結論を出しているんだけど、これは雑誌を手にとって見てくださいまし。 たまたま手にとって読んだんだけど、ちょっと自分の喉に刺さった魚の 骨が取れたような、すっきりした感じだった。
という事で、前回の続き。 それでは、「ナイーブ」でも「マッチョ」でもない選択肢とは一体どんなものなのか。
その内の一つは、「したたかさ」かもしれない。
それは例えば、「エリートサラリーマン」でも「キャリアウーマン」でも ない第3の道、「事務職OL」の道といえるかもしれない。
これはどういうことか?
それは「ナイーブなまま」生きるのではなく、かといってナイーブさを否定して「マッチョ」に生きるわけでもなく、自分をちゃんと養ってくれそうな人を「したたかに」見極める人たちのことである。
ある意味、自分がナイーブなままで生きられる環境を選択していくという 意味では、ナイーブな人の変形ではあるけれど、「賢い」ナイーブな人、 と言えるのかもしれない。
旦那が多少ナイーブだろうがなんだろうが、ちゃんと養ってくれるなら、 文句なし。「亭主元気で留守がいい」んだから。
で、ナイーブな亭主にしたって、そんな風に自分を気持ちよく手のひらの 上で転がしてくれる人だったら、自分もナイーブなままでいられるわけだし、何の問題もなし。 嫌な問題は別に気にしなきゃいいだけだし。
こう書いてみると、「ナイーブな人」と「したたかな人」というのは、 すごく相互に補完しあっているナイスなカップルなのかもしれない。
「したたかな人」が「ナイーブな人」を上回っているのは、その見極める目だろう。 すなわち、自分をちゃんと養ってくれないなら、もしかすると平気で相手を捨てられるのかもしれない。
例えば、イメージ上の神田うの、のような人。イメージ上の、と断ったのは、本人が実際どうなのかは知らないし。 本当に情が絡まず、ドライに捨てられる人が、いるのかどうかはわからないけれど。
ついでに想像を拡げてしまえば、「したたかな人」に選ばれるのは、「ナイーブな」人だろうが、「マッチョな」人だろうが、別に構わない。 ちゃんと自分を養ってくれるのが前提になっているから、「養ってくれない」ナイーブな人にも、マッチョな人にも興味は示さなかったりするのかもしれない。
以上の話はあくまで私の想像である。 で、ここにあげた「したたかな人」に対しての印象は悪いかもしれない。
でも、逆に言えば、自分が生き抜いていく上での知恵がちゃんと備わった人、という意味でもあると思う。
そしてそれは何も事務職OLの恋愛話だけではない。 いろんな意味で「したたかな面」を持つ人はいっぱいいると思うのだ。
例えば、ビジネスでちゃんと成功をおさめている実業家は、少なくとも ビジネスの世界では「したたか」だろう。 また、ついこの前も不用意な発言をして謝罪をした、麻生太郎のように 時としてナイーブな振る舞いをしてしまう二世三世議員だって、自分の 地盤を守るためだったら、相当「したたかに」抵抗をすると思うのだ。
昨年、公開された映画で、窪塚洋介自らが企画を持ち込んだ作品で、 「凶気の桜」という映画がある。
香山リカと福田和也の対談本 「愛国問答」の中でも取り上げられていて、 香山リカはこの作品と窪塚洋介の発言について、ナショナリズムの台頭を 危惧する発言をしている。
だけど、少なくともこの原作自体の意図は別のところにあるような気がするのだ。
物語の冒頭、ネオナチズムをもじった「ネオトージョー」を名乗り、ナショナリストの名の下に暴れまくる彼らの姿は、マッチョでありながら、とてもナイーブなものに映る。
しかしながら彼らのマッチョな行動は、段々と周囲のしたたかな、ヤクザや殺し屋たちに取り込まれ、自分達のナイーブさ故にそれぞれ挫折を経験してしまう。
すなわち、彼らがどんなに声高に自分達の主義主張をしても、ナイーブなままでは、大人たちの世界では通用しないよ、という事を言いたかったんじゃないのかな。
それは、もう一つ映画ネタ?で言えば、馳星周原作の「不夜城」の中で 主人公が言った、「世の中には2種類の人間しかいない。騙す人間と、 騙される人間だけだ」という言葉のように、ナイーブやマッチョでは 結局したたかな人たちにいいようにされるだけ、なのかもしれない。
それでは、「騙さないけど騙されない」存在でいようとするには果たして どうすればいいんだろうか。 という事で次回。
|