2003年05月31日(土) |
ナイーブな人(13)ここまでのまとめ |
ここで再び、一旦問題を整理してみる。 いろいろと、言葉の上でもデリケートな問題を含んでいると思うので、 あえて村上龍的な言い回し?でこの一連のシリーズで何を一番の問題にしたかったのか、再確認してみる。
元々の問題提起は、日本人の持つナイーブさに関する問題であった。 でも、それは、何もナイーブなことが全て悪いわけではない。ナイーブさ 故の日本人の美点とよばれるものも、そこには数多く含まれていると思う。
また、インターネット上のコミュニケーションについても触れたが、私はネット上のコミュニケーション全てを否定するつもりは全くない。
ただ、ネット上のコミュニケーションには、共通の土俵がなければ、コミュニケーションが成立しにくいという特性があり、そこからネット上のコミュニケーションには、異物を取り入れようとする力はもしかすると弱いかもしれない、という事を指摘したかったに過ぎない。
その上で言えば、私はネット上のコミュニケーションに対して、過剰な期待も絶望もしないで、今後も利用していくつもりである。
また、何もインターネット上のコミュニケーションによって、人が癒されていくことを否定するつもりもない。 その場所で孤独さよりも、心の安定を得られる人は沢山いるだろうし、むしろそんな風に賢く?利用することで、日常生活をも円滑で楽しく過ごしている人のほうが圧倒的に多いだろうと思う。
自殺サイトのコミュニケーションにしたって、あそこに出入りしている人の全てが、自殺をしているわけでは決してないだろうし、むしろ生きる力を得ている人たちも沢山いるんじゃないかな、と思うのだ。
では、一体私は何を問題にしようとしているのだろうか。
それは、現代の日本の社会の場合、内側と外側の概念が曖昧になっていることと、ナイーブなふるまいに関する問題である。
それは一体どういうことなのか。 ナイーブでいられる人の場合、内側だけを意識している限り、その人自身にはなんら問題はない。なぜならそのナイーブさは、周囲に容認されていることが多いからである。
だから自分が内側に属している世界が充実している限り、特に不平不満はないはずだ。 それは極端な話?白装束の集団や、オウムの人たちだって同様だろう。
ただし、現代においては、庇護社会が壊れつつあることで、内側だけを意識していくことが困難になり、自分の外側に属している世界とも否応なく、付き合わなくちゃならなくなっている。
もちろん、外側の世界には目をつぶり、あくまで自分の属する内側の世界だけに目をやり幸せに生きていく生き方もあるかもしれない。
でも、もしもあなたがナイーブな人だったとして、内側でするのと同じナイーブな態度で自分の外側にある世界に出たとして、果たして内側にいるのと同様に、傷つかないままの自分でいられるだろうか。
具体的な例で言えば、それは例えば、日本の旅行会社の、日本人の添乗員が一緒にいる、日本人だけの海外パック旅行と、自分の身ひとつ、予定もホテルも何も決めないままで、飛び出していった海外旅行の違い、みたいなものかもしれない。 今までパック旅行しかしてこなかった人が、いきなり異国の地に放り出されてしまったら、一体どうすればいいのか、途方にくれてしまうと思うのだ。
そしてここで問題になるのは、今の日本の現状では、何が内側で何が外側なのか、その基準が人によってバラバラなので曖昧だという問題だと思う。
話を20年前の金八先生の頃のTVドラマに戻す。
あの当時、人々の意識の中では、内側と外側の意識ははっきりしていたと思うのだ。
すなわち、自分の町、というカテゴリーがあり、その内側に属してる人だからこそ、近所のおばさんもいろいろとおせっかいもしたし、おじさんに怒られもした。
また中学生でも、例えば中卒や高卒で働く人も多かったからこそ、中学時代という共通の内側から社会という外側への旅立ちが意識されたし、共感をしたんじゃないかな、と思うのだ。
また、外国人の例も同様で、ONとOFFのすみ分けはうまくできているからこそ、例えばビジネスの世界でナイーブなふるまいをする人はそんなに多くはないのかもしれない。
すなわち他者とのつきあい方に多少なりともしんどいものがあっても、ある一定の社会通念が存在しているからこそ、そんなに混乱したようには見えないのかもしれない。
ひるがえって現代日本の場合、 以前取り上げたような、様々なナイーブなふるまいが現れてくるのは、やはり何が内側として意識され、何が外側なのか、曖昧なところから起こるんじゃないのかな、と思うのである。
すなわち、今まで庇護社会としての内側のみを意識して、外側とのかかわりあいをほとんど意識してこなかったからこそ、現在、様々な分野で自分の外側にあるものとどのように対処していいのか、わからなくなってしまったために起こる様々な事柄が、ナイーブな現象として現れているんじゃないかな、と思うのだ。
つまりは、この内側と外側の曖昧な時代に、いかに外側にあるものとうまく付き合うか、というのが今求められていると思うのだ。
そしてもしも、この仮説が正しかったとするならば、私たちは一体どんな風に自分の外側に属しているかもしれないものとつきあえばいいんだろうか。
問題はナイーブさを単に否定すればいいのか? と、いうことで次回に続く。 ついに月越しているし。
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