2003年05月30日(金) |
ナイーブな人(12)ナイーブではなかった頃 |
前回は、かつての日本には「外部からの異物の刺激を取り込んで、それに適応することを活力に変えていた」力があるという話をしたんだった。 そして、それこそがもしかすると今の日本に一番足りないものかもしれないと。
ただし、これは単純に過去の栄光を懐かしがってひきずろうとしているのではない。 ただ、日本人には、ナイーブではない一面もあることを再認識したかっただけである。
例えば、終戦直後、あたり一面が空襲で焼け野原で、何もなかったと言われる時代。 果たして、日本人はナイーブだったのだろうか? おそらく当時ナイーブで済んだ人なんて、皆無だっただろうと思うのだ。
だって、皆が皆、食うや食わずだった時代に、誰がナイーブな感傷にひたっていられただろうか。 そんな事をしている人は、真っ先に無視され、どこかに消えていくしかなかったはずだと思うのだ。
そして、そんな日本人の活力あふれる姿が、戦後の日本をつくってきたんじゃないかな、と思うのだ。 そして、その当時の気分があったのは、何も大昔の話ではない。 高度経済成長時代を通してその気分は維持され続け、おそらくは20年前くらいまでは、受け継がれてきたんじゃないかなって気がするのだ。
ちょっと前、TVでまさしく20年前のTVドラマである金八先生を再放送していた。 あの当時の金八先生と、最近の金八先生。変わったのは、綺麗になった町の風景と、ちょっと老けて短くなった金八先生の髪型だけではあるまい。
その時代の雰囲気が違うような気がするのだ。 20年前の金八先生の放送があった当時までは、まだ日本の中には猥雑さも活力もあり、だからこそ第2シリーズの「くさったミカンの方程式」の一連の盛り上がりがあったんじゃないかな、と思うのだ。
今、当時の盛り上がりを知らなかった若者たちがあの放送を見たとき、彼らは一体どんなことを思ったんだろうか。
話を現代に戻してみる。 それでは現代、私たちはどうすれば再び活力を取り戻せるのだろうか。
例えば株価が20年前に戻ったからといって、今すぐ生活を20年前に戻せ、といったとしても無理があるだろう。
なぜなら生活水準を元に戻そうにも、私たちは便利さと文化と繁栄をもうすでに味わってしまったから。 第一、今、以前の生活水準に戻してしまったら、今より消費が冷え込んでしまい、活力がかえって目減りしてしまうかもしれない。
それは昨年のサッカーW杯の時に、現役日本代表選手に対して、メキシコ時代のOBが「ハングリー精神が足りない」と言ったことと同様、何の解決にもならないと思う。
そして、もう一つ、現代の日本の社会は、かつての日本のように「アメリカに追いつき追い越せ」というような単純なスローガンでは一つにはまとまれない時代に入ってきてしまっている。
単純に国力を増すことが、日本国民全体の利益になる時代ではなく、人それぞれの価値観で生きていく時代だけど、その価値観が見えにくくなっている時代。
でも、そんな時代に活力を生むための一つのヒントは、自分の外部にあるものをどう取り込んで、刺激を受けるか、という事のような気がするのだ。
そしてそれはある意味、最近の「学びたい」というひそかなブームに現れているとも思うわけで。
という事で次回。
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