パラダイムチェンジ

2003年05月25日(日) ナイーブな人(7)第二部?

さて、話が大きくなりすぎて、いささか私の手にあまるようになってきた
気がするので、話を
「私の中にもあるナイーブさと、どうつきあうか」
という話に戻してみる。


まずは思いつくまま、ナイーブさの特徴をあげてみる。
・素直で純真である。
・(少なくとも自分が所属している世界に対しては)やさしい。
・外側の世界にはあまり目がいかない。

であるが、これら全てが悪い訳ではないと思う。
他人に対する親切心とか、心のきめ細やかさとか、その場の雰囲気を読む
能力など、日本人特有のいい性質とも関係があると思うし、また以前の
日記
でとりあげた、フローラン・ダバディの考える日本人の美点とも、
共通していると思うのだ。

ただ、問題になるのは、そういうナイーブさを内包している為の美点を
持つ人が、時として人の迷惑になるような「ナイーブな(子供じみた)」
行為をすることに問題があり、現在の日本ではそうした行動が特に目に
つくんじゃないのかな、と思うのだ。


では、前回の最後で取り上げたように、果たして「ナイーブさ」は全て
捨て去った方がいいんだろうか、という疑問がわいてくる。

自分の心の中にあるナイーブさというのを否定してしまうのは簡単?なん
だけど、「ナイーブなことが許される世界」というのを全否定してしまう
と、今度はとたんに息苦しい世界が浮かび上がってくるような気がする。

それは例えば、その内側の世界に属していることが重要視されて、変に
目だって傷つきたくないと思うからこそ、単独の行動がとれなくなって
しまっている世界であるとか。

具体的に言えば、誰かと一緒でなく、一人ではなかなか昼食が食べられないと言われているOLのランチメイト症候群であったり、公園デビューに失敗してしまうと延々と村八分にされてしまうらしい世界であったりとか。

つまり、内側にいればそれで安泰というわけではなく、内側にいるからこそ、息苦しさを感じる人も中にはいるわけで。


個人的に不思議に思うのは、なぜ、お互いに甘えあう世界と、今度はお互いに監視しあって抜けがけを許さない世界という両極端の世界だけが目立って、その中間で程よい世界というのを見かけることが少ないんだろうか、という事である。

いや、もちろん、そんな関係も沢山あって、私の場合なんかはそういう友
達に囲まれてきたからこそ、何とか?社会生活を営んでいけるわけだけど。


で、例えば欧米人―何かと比較の対象にする時に欧米人を引き合いに出すのは悪いくせだが、知り合いの外国人はアメリカ人が多いもので―の事を考えると、彼らの中にナイーブな一面が全くないかというとそんな事はないと思う。

彼らは自分の内面とか、内側に属するもの、例えば家族や友人といったものをとても大切にしている。
例えば、彼らがホームパーティなんかをよくするのは、自分の内側にあるものを大切にしている証拠だろう。

でもかといって、じゃあ自分の外側にあるものに対しては「ナイーブな」ふるまいをするかというと、そんなことはなく、ちゃんと一種の礼儀正しいふるまいを見せる気がする。

まあ、一連のアメリカの国としてのふるまいは、極めてナイーブな行動と
いえるのかもしれないけれど。


私はこう思うのだ。
彼ら外国人と日本人の一番の違いは、外部に対する意識の違いなんじゃないのかな、と。


例えば、日本の場合、日本全体を曖昧に大きな内側と捉えている気がする。村上龍がよく書いているけれど、政治家の人たちが「国民が」とか「国民全員が」のような事を言ったりするように。
ただ、その場合の国民が一体どんな人たちを指している―例えば、老年層なのか、若年層なのか、都市部の人なのか、農村部の人なのか―具体的
な事はわからない。

外国人の場合、「内側」の概念はもっと小さな範囲に押さえられ、内側と
外側の境界がはっきりしているような気がするのだ。
それがいいのか、悪いのかは別として。

例えばビジネスの世界でも、多少の内側の意識はあるだろうけど、それだけではビジネスは行なわないかもしれない。
具体的な例で言えば、自動車メーカーが車の部品を手に入れようとする時、今までの日本の場合なら多少のコストが高くても「系列」の子会社から調達していたんだと思う。

外国のメーカーの場合は自分の子会社にこだわることはなく、そのコストが安ければ、ライバルメーカーの系列であっても、部品を調達するし、その部品メーカーもライバルの会社だからといって部品を売らない、なんて事はない。

その一方で、彼らは「家族」「親戚」「友人」「恋人」をすごく大切に
する。それは彼らにとっての「かけがいのない内側」だからかもしれない。

それが街単位に拡がって、「ゲーテッドシティ」と呼ばれる、門に囲まれた外部の入り込まない街にまで範囲は拡大し、その行き過ぎた感覚が例えば「ボーリングフォーコロンバイン」の舞台となったコロンバイン高校の
ような問題も起こしつつはあるけれど、とにかく自分の内側の、自分が
ナイーブでいられる空間を大切にしようとしていると思うのだ。

逆に言えば、そうした「内側」があるからこそ、彼らは自分の外側の世界では自分のナイーブさを振り回さなくてもいいのかもしれない。
とは言いつつも、彼らのナイーブな振る舞いを目にすることも多いんだけど。


問題を日本に置き換えてみる。
今のナイーブさがやたらと目に付く状況って、日本人が今まで内側の論理だけで済ませてきた為に、「何が内側で何が外側なのか」一人一人の認識が異なることで、混乱が生じているんじゃないのかな、と思うのである。

これについて構図としてわかりやすい?のは、もしかすると現代の若者の問題であるかもしれない。
という事で次回。


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