パラダイムチェンジ

2003年05月26日(月) ナイーブな人(8)

さて今回も前回の続き。

前回は最近の日本人のふるまいの中にナイーブなものが目に付くのは、
もしかして「何が外側で何が内側なのか」その認識がバラバラなことから
来るんじゃないのか?
という所で終わったんだった。

そしてそれが端的に表れているのが、現在の若者に関する諸問題―例えばプチ家出とか―であるかもしれない。

さて、そうは言っても、昔から不良の若者たちは沢山いたわけで。
昔と今の一番の違いは何かといったら、彼ら若者の行動が、私たち大人の
理解を超えているように見えるということかもしれない。
自分でおっさんだと認めてしまったけど。

それではなぜ?今の子供たちは荒れている(ように見える)のだろうか。

ここで一つ断っておかなきゃいけないのは、私は別段、教育心理学者でも
カウンセラーでもなんでもなく、ただ彼らの行動から、その気持ちに関してあてずっぽうかもしれない推測をしているに過ぎないということである。

もしかしたら、さもわかったようなこうした推測こそが、彼らの苛立ちの
原因であるかも知れないわけだし。
ついでに言ってしまえば、彼らに必要なものは、こうやって評論家のように他人事で冷静に分析することではなく、その場でちゃんと受け止めてあげることのような気がするんだけれど。

と、断り(言い訳?)を入れた上で、あえて個人的な推測を重ねれば、
それは、例えば大人たちのナイーブなだらしなさに対する苛立ちと言えるのかもしれない。
だって、子育てだろうが教育だろうが、皆責任の所在をたらいまわしにしているだけでしょ?

だから子供たちは、自分の怒りの矛先を一体どこにぶつけたらいいのか、
わからない。

すなわち、ここで考えたいのは、「子供にだけ問題がある」のではなく、
「大人に問題があり、それが無意識かつ無責任になおざりにされている」
からこそ、子供たちの問題として顕在化しているという見方もできるんじゃないだろうか。

これは前にも引用した河合隼雄、吉本ばななの対談本「なるほどの対話」 からの引用文。


吉本 でも、頭ごなしに言うような人があと15人くらいいたらいいと
   思う。15人ってなんだかよくわからないですけど(笑)。「本読
   め!」とか「雨戸閉めろ!」とか、何かそういうふうに。「深刻
   すぎる!」とか。

河合 そうですね、みんなが理解しているふりをしてるからね。本当に
   理解があるんやったらまだいいけど、「ふり」をしているから、
   頭ごなしによう言わんのですよ。訳知り顔で言われると反発のし
   ようもないし、何も言いようがないんです。頭ごなしに言われれ
   ば、子どもは絶対反発できますからね。それがわかりにくいとい
   うか……。しかし、15人くらいということですが、あんまり多
   くなったらいけませんよ(笑)。

吉本 あんまり多いと、雰囲気が、こう……(笑)。

河合 昔はすべての人が頭ごなしだったから。

吉本 それがいやだと思った世代が、いま一生懸命ああやって……。

河合 そうそう、みんなやめすぎているんですね。

吉本 その代わり、妙に柔らかくなった気がします。



昔よく近所に、ガミガミうるさい人がいたのは、彼らには頭ごなしに決め付ける「ナイーブな」一面もあったとは思うんだけど、その一方でちゃんと「地域の大人」としての責任が取れたからなんだと思うのだ。

そして、今、そういう人たちがなかなか発言権を得られないでいるのは、
「町」という単位が崩壊して、「首都圏」という大きなくくりになってしまっているからなのかもしれない。

だって、例えば渋谷にプチ家出していている子の自宅が、そこら辺の近所だったら面倒の見ようがあるかもしれないけれど、それが例えば何十kmも
離れた場所だったら、「町」「地域」の大人という立場の内側の論理では
何も言いようがないわけでしょ?

で、当の若者たちにしてみれば、単に自分の論理を振りかざしてガミガミ
言うだけの大人は自分の親たちと同様に「自分の事を理解しようともしない外側」の人間かもしれないわけで。

彼らにとっての外側と意識される限り、彼らに何を言っても聞いてもらえないのは当たり前、なのかもしれない。


でも、その一方で彼らは自分の身になって考えて、本気で叱ってくれる大人(他人)というのを求めているような気がするのだ。

例えば、ホストにはまる10代〜20代の女の子たちがいるのは、彼女らの言い分を聞いてくれて、時には叱ってくれるのが(そこには大金があるにせよ)彼らホストであるのかもしれないし、またそういうかけがいのない存在であると思えばこそ、そのお金はいくら払っても、ちっとも惜しくはないものなのかもしれない。

また、例えばインターネットの掲示板で「自分の本音を聞いてくれる誰か」を求めてしまうのも、もしかしたらそんな理由からかもしれない。

でも、これって単に若者だけの話ではないと思う。

癒しの空間としてキャバクラに大金を払う大人たちもいれば、出会い系に
はまってしまう主婦や大人たちも沢山いる。

彼らにとってみれば、それらは皆、かけがいのない内側であり、変な話、
家庭が自分の外側になっている場合だってあるかもしれない。

ただ、例えばインターネットだけを内側にしてしまうと、そこには一つの
落とし穴ができるような気がするのだ。
そしてそれはネットコミュニケーションの一種の限界といえるのかもしれない。

と、言うことでまた次回。


 < 過去  INDEX  未来 >


harry [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加